揺れたのは

 



 ──……さん……さん!



 手元の紙切れに書かれた鮮やかな文字の形だけを見つめながら、私は考えている。

 あの人は今、どうしているだろうか。


 ──私も最近家のことが忙しくて会えてないけど、瑞月が言うにはあんまり変わってないって。でも、元気だとは言ってたよ?


 電話口の深白の言葉が、繰り返し頭に浮かぶ。変わってないって、一体いつからの話だろう。


 私が最後にあなたを見たのは、もう十年ちょっと前。最後の日のあなたの顔は、忘れようとしても頭に沁みついてけして離れてはくれない。その声も、やさしい瞳も。

 元気って、どういう元気なんだろう。身体が?心が?それとも両方?そういえば、風邪とかひいてるの見たことなかったな…あんまり健康的な生活してなかったけど、もともと丈夫なのかな…でも熱とか出したらすぐ寝込みそう。見た目と違って弱い人だから。くしゃみも犬みたいだったっけ、太陽の光見てよく──…


「春さん!!」

「わっ、びっくりした…」

「びっくりしたじゃないですよ、何回呼ばせるんですかもう!」

「あ、ごめんね夕季ゆうきちゃん」

「ちゃんと聞いててくださいよ、もう来週なんですから」

「……そっか、早いもんだね」

「なんですかそれ…結婚するの春さんなんですから、もうちょっとちゃんと聞いててくださいよ?」

「うん」

 目の前の紙切れに書かれた当日のプランニング。仕度も挙式も、撮影も披露宴も。目がくらむほど豪華で、華々しいそれ。そこに載っている内容のなにひとつも、私は意見を出してはいないけれど、きっといい日になるのだろう。手がけているのは祖母と母なのだから、間違いはないはずだ。


「──は、──で、──だといいかなと思ってまして」

 プランナーの言葉ははっきりとして聞き取りやすいのに、どうして頭に入ってこないのだろう。聞くつもりはあるんだけどな…そう思って、自分の思考の大半を占めているのが今もあなただということに、私はしかたなく笑った。

「それで披露宴の席順なんですけど、こんな感じでいかがですか?」

「……」

「春さーん、聞かれてまーす」

「あっ、ごめんなさい。はい、これ大丈夫です」

「全部これでよろしいんですか?なにも変更なく?」

「──はい。」

 にっこりと笑って応える。笑顔を作るのにももう慣れた。

 席順なんて別にどうでもよくて。だって式に出る人はほとんど、知っているようで知らないそれなのだから。業界関係の人と会社の関係の人と、祖母の知り合いに母の知り合い。私には関係ないから、どうでもよかった。

「でも春さん、ご友人とかこの位置でいいんですか?」

「うん、いいよ。大丈夫」

 友人と言っても、モデル仲間たちのことだろう。春ちゃんのお友だちに招待状出しといていいかしら?と言う母には、二つ返事で返した。母が思う私の友人が誰なのかは知らないけれど、呼びたい相手など、私にはいないのだから。


「あと、当日の装身具なんですけど、冬さんがいろいろ準備してくださってまして──」

 プランナーが白い手袋をはめて用意していたボックスを一つずつ開けると、ご丁寧に中身をすべて見せてくれた。ネックレスがこうで、ヘアアクセサリーはああ、、で。どれも高そうだから壊さないように気をつけないと…ただそれだけを思って眺めていた。

「ピアスはええっと…これですね」

「……これ、お花ですか?」

「そうですね、モチーフは桜って聞いてます」

「へー綺麗ですねー、春さんにぴったり!いつもつけてるやつもお花ですもんね。さすが冬さん」

 真ん中に大粒の真珠がついた、白い桜のピアス。一枚一枚の花びらが大きくて美しい。私の耳から零れ落ちてしまいそうなほどに。


 母の気持ちはありがたいけれど、私の花はこれじゃない。


 右耳をそっとつまんでその形をたしかめて、私の花はこれだけだと、そう想いを胸に秘めた。


「夕季ちゃん、お願いがあるんだけど」

「なんですか?…あ!だめですよ?いつものやつじゃ」

 それはわかっている。きっと言えば母が否定することはないだろうけど、結婚式という公の場で安価なものをつけていては誰になにを言われるかわからない。会社の顔としても、私は母が選んだものをするべきだ。


 だけどひとつだけ。抵抗できるならば、させてほしいから──。


「これ、後ろイヤリングにしてほしいの」

「はい?そんなことですか?まあ、すぐにできると思いますけど…」

「そっか、よかった」

「でも春さんピアス開いてますよね?」

「……右耳だけだから、両方揃えてもらえればなって」

「?だったら左耳穴開けたらいいんじゃないですか?…あ、痛いの嫌とか?」

「…まあ、そんなとこ」


 なんとか夕季ちゃんを説得すると、私はドレスの最終チェックに向かった。

 この穴にほかのものを通したら、私の心が痛むから。だから、嘘はついていない。



 今もまだ私の心は、あなたの居場所を失くせないでいる──。



 私の敷かれたレールの上には、モデルとして実績を残すこと、会社継ぐこと。そのほかにもうひとつ、この時代には似つかわしくないものがある。


 それが来週に迫った"結婚"だった──とは言っても、式が来週というだけで籍はもう入れているのだけれど。


 会社を興したのが女性なら、それを受け継ぐのも女性。代々そうなってはいるけれど、その横に夫というものがあって初めて代表としての責を認められるのだ。

 表に顔を出すことの多いこの業界では、独り身だとなにかと不便も多く、下がついてこない。そんなことでと私も思うけれど、実際は本当にそんな些細なことで会社は簡単に歯車を回さなくなる──祖母が就任当時、そうだったように。くだらなくて滑稽で、いやになってしまう。


 日本を出てから、多くのコレクションやファッションショーに出演してきた。ブランドとのタイアップに、雑誌の撮影に。今ではそこから広がってドラマや映画など、女優としての露出も増えてきている。


 "実績"という名の駅を通り過ぎた私に残された途中駅、それはもう"結婚"だけ。

 

 そろそろ、と言われていたのをずいぶんと先延ばしにして、気づけば三十歳まであと二年ほど。もう逃げられないところまできてしまった私は、諦めて自分の──いいや、姉の。その役割を受け入れることにした。

 

 母の決めた結婚相手はいい人だ。昔、食事会で一緒になったことも何度かあって、彼も同じ境遇だから話しはしやすい。

 相手は誰でも、自由に恋愛していいと母は言ったけれど、いまだにこのピアスを捨てきれない私にそんなことができるわけもなく、予定通り彼と籍を入れた。

 

 恋愛感情はそこに一切ない。あるのは少しの名声と、息の詰まりそうな気持ちだけ。


 籍を入れるだけのこと──そう思っていたけれど実際にその日がくると、気持ちを海のように底のない場所に深く沈められた気分になって。苦しくって。気づいたときには涙がこぼれていた。


 結婚の話も昔から決まっていたことで、それを嫌だとは思っていなかった。


 16歳の卯月、あなたに出会うまでは。

 その恋を、知ってしまうまでは。


 あなたが愛しくなればなるほど、そのことを伝えることができなかった。私からあなたに恋をしたのに。あなたもそうなってほしいと、けしかけたのに。私たちにはいつか終わりがあって、私は日本を離れて。そんな大事なことが、なにひとつあなたには言えなかった。

 

 恋をしてみたい。そんな好奇心だけで始まった恋だったら、どんなによかっただろう。ほとんど一目惚れだった私はあなたを知りたくて。そうしているうちにそれが初めての恋になって。


 あなたに恋をした自分を何度責めても、その気持ちを止めることができなかった。


 私が好きになればなるほど、あなたも私を好きになって。そうやって私はどんどんあなたから目を背けたまま、その恋という花に水を与え続けた。


 あのころ、花はきれいに咲いていた──突然引き抜かれるとも知らないままに。


「春さんちょっと一回全部着飾ってくれません?写真撮っておきたいので」

「うん、わかった」

「あーちょっとちょっと、これ忘れてますよ」

「……ピアスは、今日はいいや」

「えぇ、でも──」

「いいの。」

「…じゃあイヤリングにしておきますよーっ」

「ありがとう」

 

 右耳のピアス。

 ちいさなちいさな白いつつじの花は、私にとってかけがえのないもの。


 初めて二人で過ごす私の誕生日、不器用に差し出したあなたの恥じらった顔がどうしても忘れられない。目を閉じればすぐに瞼の裏に浮かんでくる──あのときあなたが言ったことも。



    *********



「つつじ?」

「あ、そう。」

 いつだったか。私の香りを花みたいだと言ったあなたに、好きな花を教えたことがあった。


 ──つつじの花。


 それはまだ幼等部に通っているころ、園庭の端にひっそり身を置いたその花を、私はよく眺めていた。大きなその花びらは陽の光を受けても色を変えず、なににも染まらないその美しさに心を惹かれた。

 とくに花に詳しいわけでもないから、これが一番、みたいなことでもなかったのだけれど、なんの気ないその会話を覚えていてくれたことに心はまた熱を持った。


「…どうしてこれにしたの?」

 だってそれを話したとき、たしかあなたは"春はもっとやさしい匂いがするのに"と、なぜか少し不満そうにしていたはず。

 それに私は"つつじ"としか言わなかったから、普通は赤やピンクを想像するもの。


 なのにどうして。

 私の眺めていたつつじが、白い花を咲かせていたと、あなたはわかったの──?


「……花びらが春っぽかったから…」

「私っぽい…?」

 顔を近づけて問い詰めると、向こう側が透けて見えるから…春の肌っぽい──と、あなたは少し目をそらして、ひとり言のようにそう呟いた。


 うれしかった。

 そうやって思ってくれたことが。

 好きな花を覚えていてくれたことが。


 白い花を選んでくれたことも。

 それが、桜じゃなかったことも──。


「あけたらつけなよ」


 あなたはきっと知らない。

 白いつつじの花言葉を──。


 それをもらって、私の胸がどんなに鼓動を揺らしたのかを。


「……じゃあきょうちゃんがあけて、今」

「え、いま…?」

 白いそれをあなたがくれたから。私はあなたに、その痕を残してほしくなった。

「うん」

「……親とか、だいじょうぶ?」

「わかんない。でも、今がいい。今きょうちゃんにあけてほしい」

 あなたのパーカーの袖をきゅっと掴んで目を閉じた。きっといつものわがままだと思っていただろうけど、私の中でその重みはいつものそれと違う。


 あなただけの痕を、今すぐに残してほしい。

 私を、あなただけのものにしてほしい。


 だからお願いきょうちゃん──断らないで。


「……はぁ……おいで」

 あなたは私の手を取ると、眉を下げながらしかたなく微笑んだ。

「…いいの?」

「ん。でもちょっと痛いよ?春、我慢できる?」


 あなたにそうされるなら、どんな痛みでも構わない──そう言いたかったけれど、私は黙って頷いた。



「はい、これ。あと氷」

「さんきゅ」

「あんたまたあけんの?」

「あけねーよ」

「あ、じゃあ春があけるんだ?」

「だから呼び捨てすんなって……」 

「結さんありがとう」

「ん。気を付けなー」

 ピアッサーはあなたによく似たお姉さん、ゆうさんの余りをもらった。結さんはいつも私のことを"春~"と可愛がってくれて、それは今でも変わらない。もし姉が生きていたらこんな感じだったのかなとよく思ってしまう。あなたに似て不器用で口が悪くて、でも優しくてどこかあたたかい人──返事の癖まで、あなたにそっくりだった。


「どっちにあけんの?」

「…きょうちゃんがきめて」

 そう言うとあなたは私の耳たぶを交互に触れて、こっちかな、と右耳を氷で冷やしてくれた。ひんやりと当たるそれが心の熱も吸い取ってくれたら、きっと今ごろ楽だったのに──。

「いつもそんな丁寧なの?」

 慣れた消毒の手つきに、他の人にも開けたことがあるのかなと、子どもじみたことを口にしてしまった。

「んー?自分はどうでもいいけど春だから。ここあけるよ?」

「──あ、うん…」

「怖い?」

「……うん…あんまり顔、見ないでほしい…」

 怖いのと嬉しいのとで、もう自分がどんな顔になっているかもわからなくてそう言うと、あなたが私の手を引いた。

「おいで」

 そう言って、座っているその長い足の間に私を引き寄せて。

「あっちむいて」

 後ろから。

 ガチャンッ──と。

「……あいた?」

 そう振り向くと、あなたは私を抱きしめて、首筋にちゅっと小鳥のようなキスをひとつ。

 耳がじんじんと熱を持ったのは痛みからなのか、あなたにつけられた痕が嬉しいからなのか、のぼせた頭ではよくわからなかった。


 ──どうせなら、もっと痛くてもよかったのに。

 歪んでいるかもしれないけれど、美しいだけの恋ではないと知っていたから、どうしてもそう思ってしまった。

 

 家に帰ると心配性な母に少し怒られて、学校でも先生に心配されて。ふさがっちゃったと、あなたにもそう嘘をついたけれど。


 本当はずっと、大事に育ててた。

 だって、あなたがくれたものだから。


 ピアスを見るたびに思う。

 私はあなた以外を、この痕に入れたくない──と。


 ──そういえば、これってどうやって…。


 安価とはいえ、きっと当時のあなたにはちょっと値の張るものだっただろう。あの時期、バイトはそんなに詰め込んでいなかったはずだけれど……。


「…あぁ、そっか。クリスマスのときのバイト代──…」



    *********



 体育祭も終わり、秋とは比べものにならない寒さを連れて冬がやってきたころ、私は悩んでいた。


「春ちゃん、このブランドから専属のお誘いがあったんだけど…」

「………えぇ?」

 見せられた企画書には、よく見るどころの騒ぎではないそのブランド名が、あちらこちらに散りばめられていた。

「なかなか直々にオファーがくるようなものではないわね…でも──」

「いいよ、受ける」

 きっとこれは大きなきっかけになる。どうせ出ていくのならそれは大胆な方がいい。断る理由はなかった。

「そう?よかった、おばあちゃんがね、先に返事しちゃったのよ勝手に…もう…」

「…おばあちゃんらしいね」

「ごめんねぇ。でも受けてくれるみたいでお母さんもうれしいわ。あ、でも」


 ──契約の都合で一年ちょっとしたら向こうに行くことになるから、高校は転校になっちゃうけど大丈夫?


 有名な海外ブランド。専属ともなればその仕事量は計り知れないだろう。きっと私は広告塔になるのだから。そうなれば契約開始時期から向こうに移り、本腰を入れた方が話は早い。きっとそれが母と祖母の考えだったのだろう。契約書にも、どうせ聞く前にサインはされていた。


 私は母の問いに、きょうちゃんと卒業したいから嫌だ──とは言えず、そのまま黙って専属の話を受け入れた。

 

 一緒にいられるのもあと二年。そう思っていたのに、それがまた半分になってしまった──あなたへの想いは、増えるばかりなのに。

 これ以上に縮まらないことを祈りながら、私はくる日もくる日もあなたにそれを言い出せないまま、時間と冷たい風だけが通り過ぎていった。


 そんな私の荒んだ心に灯りを灯したのも、またあなただった。

「さむい?」

「……ん」

 普段から低体温のあなたの敵は、ほかでもない冬の季節。吹きすさむ風に身をちぢこめながら、その日もめいっぱいにペダルを漕いでくれたけれど、いつもよりあなたは増して無口で。

「きょうちゃん大丈夫?」

「ん、春があったかいからいける」

 そうはいっても、信号がぼやっと赤くなり自転車がその動きを止めると、冷え性なその身体に北風は容赦なく襲い掛かる。身震いしたあなたは肩をすぼめてすっかり小さくなって。どうしてこんな寒さに弱いのに、この人はマフラーも手袋もしないんだろう…そう思いながら私は、マフラーの端をあなたにも巻いてあげようとそれに手をかけた。

 けれど、前日のテレビ番組を思い出してその手が止まる。すかさず手袋を外すと、長い髪を少しよけて、あなたの両耳に手の平でくっついた。一瞬身体がびくっとしたけれど、すぐに力が抜けて肩もだいぶ元の位置に戻ってきたようだった。

「あったかい?耳あっためるといいんだって」

「ん?」

 両耳をふさいでいるのだから聞こえないのは当たり前か、と少し身を乗り出してあなたの顔を覗いてみる。寒さにこわばった身体から緊張が解けて、気持ちよさそうに目をつむったあなたの顔がそこにあった。まるで、飼い主におなかを見せる子犬のように、だらしくなく緩みきって。ほかの人の前ではいつも、しかめっつらなのに──そう思うとまた、あの言葉を口にしたくなってしまった。


 いまなら。あなたに声が届かない今なら。



「好き──…」



 気づいたときには、そう声に出していた。


「ごめ、なんか言った?」

「んーん。」

 幸いにも、右折してきたバイクのマフラー音がその言葉の面影すら残さずに攫いあげ、あなたにそれが届くことはなかった。


 ──よかった。聞こえてなくて…。

 

 私はその言葉を、あなたに言ってはいけなかった。

 何度頭に浮かんできても、何度心を揺さぶられても。どんなにそう想っても、どんなに応えたくても。その気持ちをひらすらに閉じ込めて。


 いつか、私たちには終わりがある。


 それをわかっていたから、私はあなたに何もあげられなかった。なにかを残したら、きっとあなたは苦しむことになる。そんなのは、私だけでいい。


 好きと囁いたあなたの落ち着く声も、やさしい瞳でするそのキスも、不器用に渡してくれたつつじの花も、その痕も。すべてを心に刻みつけてしまった私はきっと、もうあなたを忘れることはできないだろう。


 そして、あなた以外を好きになることも──。


 保健室の頬へのそれも、この日の言葉も。本当はそれすら、してはいけなかったのに。身勝手な恋がその色を濃くするたび、私はあなたを傷つけている罪悪感に押しつぶされてしまいそうだった。


「あ、春。25ってさ」

「…ごめんきょうちゃん、その日家の用事があって」

 大事な日にあなたが誘ってくれても、それに応えることすら私にはかなわない。

「あー、そか…」

 あからさまに落ち込んだその背中を見て、なにか言わなくちゃと、そう思ったけれど"一緒に過ごしたかった"とは、この日の私には言えなかった。

「会いたいって思ってくれてた?」

 だから少し茶化した聞き方で、空気だけでも変えようと思った。むくれて別に──と、あなたがそう答えていつもの空気になって、また二人で笑って。


 そうなると思っていたのに。


「ちょ、きょうちゃん…?」

 あなたが急にブレーキを握ったから、止まった車輪の反動を受けて私はその背にぶつかった。

「……」

 なにも言わずに、あなたが私の手を握る。その手は冷たいのに、私の心にはちいさな光が灯って、みるみるうちに全身があたたかくなった。


 どうしてあなたはいつも、私に忘れられない思い出を残すんだろう。

 辛いのに、苦しいのに。それなのに私はまた、あなたを好きになってしまう。


「…初詣、連れてってくれる?きょうちゃん」

「…ん」

 私はその手にありったけの想いを込めて握り返した。

 


 きょうちゃん。好き。



 大好き。



 それから──。






 ごめんなさい。





 心の中で、何度もそう呟いた。




 クリスマス当日はつまらない食事会に例年のごとく参加して、名前も覚えていない母の会社の人たちに笑顔を振りまき、ひたすら表情筋が疲れて一日は終わる。それだけだったはずなのに。


 今でも思い出すのはちょっと恥ずかしいような日になってしまうなんて、当日の朝は思いもしなかった。


 夕刻から開かれた大きなパーティー。私は前年よりもずいぶんとつまらない顔をしてそこにいた。


 ──せっかくきょうちゃんが誘ってくれたのに。


 そんな風にあなたに会えない不満を募らせながら、きつく締められたドレスにもうんざり。母がこの日のためにわざわざ発注してくれたスカーレットのドレス。スレンダーラインのそれが嫌なわけではなかったけれど、どうせならあなたに見てほしかった。

 

 いつもより手の込んだ編み込みもメイクも、少し高いヒールも。どんなに着飾ったって、あなたがいなければそこに意味はないから。


 いつもの私なら、お開きが告げられるまでそこで笑顔を作れたのに。この年だけは、それができなかった。


 ──どうですか?

 と手を差し伸べたのはほかでもない。来週ともに赤い道をゆく人。母の顔に泥を塗るわけにはいかず、私はその手を取るしかなかった。つまらない音楽がつまらない数分を繋いで、私は彼と踊った。


 それが嫌で嫌で、たまらなかった。あなた以外に触られるのも、腰を抱かれるのも──あとから聞いた話では、彼も親の言うことを聞いての行動だったそうだけれど。

 私は母に先に帰ると伝えると、胸に次々浮かんでくる黒いシミを吐き出すように外へ飛び出した。


 タクシーに乗り込み雑に行先を伝えると、すぐにそこを後にして──本当はすぐにあなたに会いたかったけれど、会ってなにを話せばいいかもわからない私は、そのまま自分の家へ向かうしかなかった。

 高速を降りしばらくすると、見慣れた道が目に入り胸を撫で下ろし、さっきまでのことがすべて夢だったらいいのにと思いながら、暗い窓の奥をじっと見つめていた。


「わ、なんかいるなぁ…あぁ今日クリスマスですもんねぇ」

 そのとき、前から運転手さんが声をあげて、なんだろう?と、後部座席からその目線の先を追いかけた。


 ──……トナカイ…?


 目の前の暗い道に、トナカイ。それも必死に自転車を漕いで。

 浮かれた人がいるもんだな…そう思って視線を外そうとしたとき、私は目を疑った。


 前カゴのへこんだシルバーカラーのそれが、あなたの自転車によく似ていたから。


 そんなわけない。バイトだって言っていたし、こんなところにいるわけない──そう思っても、淡い期待が胸の奥を勝手に膨らませていく。

 じっと、目を凝らしたそのとき、トナカイの頬のあたりがキラッと光った。

「すみません!停めてください!!」

 ヘッドライトを反射したのは、あなたの耳元のピアスたちだった。

「こ、ここで?!」

 急に大声をあげた私にびっくりしながらも、運転手さんはキッ──とブレーキを踏んだ。


 ──…やっぱり。


「トナカイさん?」

 窓をゆっくり開けて声をかけると、トナカイはものすごい勢いで振り向いた。

「なにしてるの?きょうちゃん」

 それがおもしろくて、あなたに会えたのがうれしくて、私は緩みきった頬を隠しもしなかった。

「すみません、ここで」

 そう伝えて暗い道でタクシーを降りると、豆鉄砲を食らったようにきょとんとしたあなたの姿に声を弾ませた。

「その格好、もしかしてサプライズ?」

「ち、ちがう!」

 ブンブンと手を振り回しながら、ああ、、でこうでと、あなたはトナカイになってしまった経緯を一生懸命に教えてくれた──あわてんぼうなのは、サンタじゃなかった。


 ──バイト先のライブハウスのイベントで嫌々着せられて、そのイベントがカップルだらけでそれに充てられて、そのうえ喫煙所で赤髪と子猫に鉢合わせて、あいつらが目の前でいちゃつくから──!!!


 その慌てふためく様子がおかしくてあまり話が入ってこなかったけれど、たしかそんなことを言っていたはず。

「──で、会いたくなっちゃったんだ?」

「あ。……まあ…」

 勢い任せに言ったはいいものの、きっと私に言うと都合が悪いことまであなたは口にしていて。それに気づいた顔がイタズラのばれた子どものようで、かわいくて仕方がなかった。

「それでその格好のまま出てきたと」

「……会いたかったんだから仕方ないじゃん…」

 

 ねえ、だいすき。

 今日ね、ほんとはね、嫌だったの。

 あなた以外に触られたのが。


 そう言ってしまいたい気持ちは心の奥に必死に押し込めて。

「…きょうちゃん、私も会いたかったよ?」

 伝えられるそれだけをあなたに告げた。

「…ん。てかそんな服はじめて見た……」

「ちょっと食事会。疲れたから先に出てきちゃった」

「そっか……」

「きょうちゃん?」

 ぼーっと、私を見つめて瞬きもしないあなた。見惚れてくれてるのが分かって、また好きと、言ってしまいそうになった。それと同時に、着飾った時間も悪くなかったなと思えた──あなたの目に映ってやっと、このドレスにも意味ができたのだから。

「あ、うん?…ごめ、なに?」

「どうしたの?頭がお留守だけど」

 だからまた、ちょっとからかって。


「あ、いや……綺麗だなって…」


 うれしかった。

 うれしいという言葉が適切なのかもわからないほど、胸がぎゅっとなった。


「ねえ、きょうちゃん」

「ん?」

「……あの日のワンピースとどっちが好き?」

 胸に溜まったぐちゃぐちゃのものをあなたにかき消してほしくて、そう聞いてしまった。


「……春にはあっちの方が…似合う。と、思います…」


 少しの沈黙のあと、あなたがくれたその答え。自信なんてまるでなくて、目も合わせずにしどろもどろだったけれど。


 それでも、私には一番の答えだった。


 心の揺らぎがどのくらいまでなら、それは"うれしい"に収まるんだろう。こんなに痛いくらいでもいいのかな──そう思った。


「…………100点あげる」

 痛くて、苦しくて、辛くて。

 それなのに、胸があたたかい。

 恋がこんなに難しいなんて、どんな小説にも書いてはいなかった。


「…きょうちゃん、私プレゼントほしい。」

「……はい?…プレゼントってな──ちょ、はる?!」

「いこ?」

 あなたの声を遮って手を取って、いつものように自転車の後ろに腰をかけた。邪魔な長いスカートを手で雑に絞って。


「…こんな時間にどこ連れてけって?」

「…どっか」

「なにそれ…」

 うな垂れたトナカイに、お尻をぺちぺちとするようにわがままを言い続けた。

「お願い聞いてくれないの?」

 甘い声で、囁いて。

「だ、だって」

「恋人なのに?」

 もうひと押し、もうひと押し──と。


「………親へいき?」

「うん。だめ?」


 早く、早くあなたに。


「──…だめじゃない」


 ここから連れ出してほしい。


 この胸の奥で騒がしく揺れる想いを、あなたに。




 あなたに、触れてほしい──。




 着ぐるみのたるんだ足元を捲し上げて、トナカイは北風を切りながら自転車を走らせた。

 後ろに赤いドレスの、私を乗せて。


 何度も遠回りをしながらあなたの家に着いたころ、冬の夜はその深さを一層に増して、暗い夜が私たちをのみ込んでしまいそうだった。

 少したばこの匂いがするあなたの部屋で、心に溜まった黒いそれがひとつずつ、あなたの光に照らされていく。

 私を好きだと伝えるあなたの濡れた瞳に吸い込まれながら、冬の寒さを追い出すように、抱きしめ合って夜に溶けた。

 私の過ちも胸に秘めた想いも、全部を夜の合間に重ねて。許しを得ようとひたすら泳いで。その岸辺であなたが手を差し伸べて。そんなふうに、何度も何度も。


 夢に堕ちるそのとき、瞼の隙間から見えたあなたのまなざし。木漏れ日ようなそのぬくもりに抱かれて、私はそっと眠りについた。

 今日という日が終わらなければいいのに。この幸せを阻む朝日なんて昇らなければいい。そう思いながら。


 それでも空は白んで、冷たい陽の視線に目を覚ます。瞼を開けば、飛び込んでくるのはあなたの木漏れ日。

 夜に沈む前も朝にほころぶそのときも、そこにあなたがいる幸せを噛み締めて、そっと心に仕舞い込んだ。


 やさしいそのぬくもりを、いつまでも忘れないように──。


きょう、あんた昨日バイト…うわぁ…」

ゆうどうし…おぉう、トナカイがサンタ抱いてる……」

「……顔洗ってくる、朝から変なもんみたわ」

「…なるほどねぇ……しあわせそうにしちゃって」

成留美なるみ、いくよ」

「ほいほい、お幸せにっと」


 もう少しこのままでいたいから──と、あなたはもうひと眠り。頬をつついてその寝顔を眺めていたとき、急に部屋のドアが開いた。びっくりして寝たふりをした私に、二人は気がつかなかったみたい。

 成留なるさん──あなたのバイト先の店長で、結さんの恋人。この日から私のことを"サンタ"と呼ぶようになったこの人は、今でも季節なんてお構いなしに私をそう呼んでくる。



 私は今でもたびたび、この夜を夢に見てしまう。

 私を呼ぶかすれた声、求めて揺れる熱い瞳、あなたの部屋のたばこの匂い。

 そのすべてが、愛は涙と同じあたたかさだと教えてくれたから。


 この夜、心を照らした光は今もまだ、私の中にある──。



    *********

 

 

 あなたがいつか私のことを忘れられますように──そう祈った新年はあっという間に季節を転がして、また桜の花が散ったあなたとの二度目の春。


 まるでなにかの兆しのように、二人はクラスが分かれた。とはいっても、教室は隣同士だったけれど。

「あっ、あの……」

「──あ。」

「体育祭のとき、その…ええっと…ごめんなさい…!」

「えっ、かわいい。」

「……え?」

 深白との初めての会話は、たしかこんな感じ。もじもじと、その擬音が身体中から出てきそうなほど挙動不審な子猫が急に身をすり寄せてきたことで、私は自分の中にある母性を知った。


 私は深白と、あなたは瑞月と。それぞれが別々の教室で新しい風に吹かれることとなった。


 深白はいつもおどおどして弱々しくて、それでいてなごやかで。私はそんな深白を愛でるようにして可愛がった。春ちゃんやめてよぉ…と言いながらも深白はくすぐったい笑顔をよく見せていた。

 今までの私なら、たとえ向こうから話かけられたとしても、教室という狭い空間でこんな風に誰かと関係を築いたりはしなかったのに。いつからどうして私はこうなれたんだろう。わかりきった答えを考えるのは時間の無駄だけれど、どうしても考えてしまう。


 あなたがいなかったら、私はいまも独りのままだったのかな──と。

 

 深白とはよくあなたの話をした。ああでもないこうでもないと、あなたの愚痴のろけを言ったり、かわいいところを話したり。他にできる人もいなかったから、うんうんと深白がそれを聞いてくれることが嬉しかった。

「いないと思うといっつも屋上で──だもん」

「あぁ…それ瑞月もおんなじ」

「ほんと?先生にばれたりしなかった?ごまかすの苦労しない?」

「あー……どう、だろ…?」

「みーしーろー?」

 きょろっと目をそらした深白がわかりやすくて、私は近づいてほんの少し圧をかけた。

「えへへ。先生には私から言ってあるから…」

「なんて?」

「"瑞月は繊細で緊張しいだから、たまに屋上で黄昏てても許してあげてください"って」

「…それって瑞月は」

「うんっ、知らないよ?」

「……。深白って、ほんと…」

「だって瑞月、一人じゃだめだめだから…」

 こうして深白はいつも瑞月の知らないところで、そのリードを固く握りしめていた。

「瑞月って繊細なんだ?」

「うん、すぐシュンッてするよぉ」

「えー、どういうとき?」

「うーん…私が他の人と話しているときとか…」

「………あれが?」

 教室の後ろの扉の前で、中に入らず私を睨みつけている瑞月を指差した。

「うん、あれほんとは悲しい顔なの」

「……へえ、あの狂犬みたいな顔が…」

 どう見ても、怒っているようにしか見えなかった。

「瑞月は忠犬だよぉ。春ちゃん見てて?」

 そう言うと、深白は瑞月にむかって小さく指で"×"を作ってみせた。それを見た瑞月は、怒った顔をさらに歪ませて、フンッと声が聞こえそうな勢いでその場を去っていく。

「ね?」

「…ごめん、今のなに?」

「いい子にしててって合図。瑞月には"今はダメ"って言ってあるけど…」

「ぷっ、あっはは!じゃああの顔って、悲しいが増した感じなんだ?」

「そう、忠犬でしょ?どっちかっていうと、狂犬はきょうじゃない?」

「きょうちゃんはねぇ──」

「春」

 そこに、ズカズカとあなたが後ろの扉から入ってきた。

「あ、きょうちゃん」

「もう帰っていい?やってらんないわ、あんなやつと隣の席で」

「どうして?屋上いっしょにいったらいいのに」

「…やだよ、時間ずらしてる」

 あなたと瑞月は私たちとは対照的に、当時はよくいがみ合っていた。

「また喧嘩したの?」

「いや、瑞月がっ」

「だめっていったでしょ?」

「……」

「本当に先に帰っていいと思ってる?」

「…」

「きょうちゃんが先に帰ったら、私はどうやって帰るの?」

「……はぁ…わかったよもう…」

 そう言って、あなたが不満そうに教室を出ていくと、深白がそれを見てクスクスと笑っていた。

「頃は猛犬なんだねぇ」

「そ。言うことはちゃんと聞いてくれるから」

 

 こうしてお互いの愛犬をうまく飼い慣らしながら、私たち四人は同じ時を過ごすようになっていった。深白の家でテスト勉強をしたり、瑞月の家に泊まったり。夏がくれば誰かの別荘でバーベキューをしたりして、友だちっていいものだなと、そうとまで思えるようになった自分に私は驚いていた。

 あなたが居なければ、きっとこの二人とも出会えなかった。


 そして時雨月、忘れもしない二年次の文化祭。その催しに浮かれて騒がしくなる校内をよそに訪れた、私とあなたとの初めての喧嘩──とはいっても"初めて"以降はなかったけれど。


 原因は……誰だろう。きっと瑞月なんだろうけど、根本は私だったのかもしれない。


 深白と瑞月は私とあなたのような関係ではなく、まだ恋という糸をひとつに繋げられていなかった。

 瑞月が深白をそういう意味で好きだというのは、距離の近い私たちでなくとも学校中が周知の事実だったというのに。もちろんその中には深白も含まれていて、瑞月だけが取り残されたまま、当時その一歩を踏み出せないでいた。

 理由は深白の初恋にある──相手は同じ千早でも、瑞月ではなく、楓。

 

 "千早ちはや かえで"──瑞月の姉にして、深白の初恋の人。

 瑞月によく似た、でも瑞月とは違って目つきの優しいその人は、誰も近づけない幼馴染という二人の間に割って入れる唯一の存在だった。幼いころ、泣き虫だった瑞月に代わってよく深白の手を引いていたのだという。だから深白はその手に憧れて、幼心に"初恋"という言葉を使い、瑞月にそれを話した。


 そのことをずっと胸に抱えたままの瑞月は当時、姉によく突っかかっていて。それを深白が止めては、また胸に抱えるものが増えての繰り返しだったそう。

 ところが、どこから風に乗ってきたのか、深白の縁談の噂が瑞月の重い足を動かし、文化祭で想いを伝えたいと、なんともロマンチストにそう相談してきたのだ──私に。


 なんで私?と当時は頭を抱えたけれど、瑞月が言うには"あんなの手名付けてるんだから"って。そういうことだったらしい。

 瑞月は"頃にはまだ言わないでほしい"と言って、私もそれに賛成した。きょうちゃん、そういうの鈍感だし──と。


 でもそれがよくなかった。瑞月が私との時間を増やすということは、必然的にあなたは深白との時間が増えていく。幼すぎた私はその恋心を拗らせて嫉妬して、勝手に傷ついた。

 

 信じることと好きの違いなんて、このときは知らなかったから。


「深白、あたしのことどう思ってるかな」

「……またその話?」

 相談と言っても、大半は同じそれ、、を瑞月が真顔で呟くだけの時間。早くきょうちゃんと帰りたいのに──そう思いながら聞いていた私はきっと、心があなたで濁りきっていたのだろう。

「なんかもうやめようかな」

「……はぁ…ちゃんと言いなよ、瑞月」

「…」

「大丈夫、深白なら」

 深白も瑞月に同じ想いを寄せていることを私は知っていたけれど、それを私の口から言うのは違う。だから曖昧な言葉でしか、瑞月を支えることはできなかった。

「春はどうやって頃に言ったの?」

「私は──…」

 私は言えていない。

 あなたが好きと、そんなことも言えないのに、私が瑞月の背中なんて押していいわけがなかった。

「え、もしかして頃から?」

「うーん、まあ」

「へえー、あのばかもそういうこと興味あったんだ」

 あの夏の夜、私を組み敷いたあなたはずいぶん手馴れていた。経験はあったのかもしれないけど、怖くて私がそれを聞くことはなかったから、興味があったのかは知らない。

 でも、焚きつけたのは、ぜんぶ私。

「なんて言ってきたの?あのばか」

「──…内緒」

 あの告白は私だけのものだから、瑞月には教えたくなかった。

「でも瑞月、ちゃんと言わないと。手の届くうちに」

 まるで自分に言い聞かせているようだった──あなたのそばにいられるうちに、すべて話せと。

 

 お手洗いに向った瑞月と別れて、私はその日、一人であなたの待つ教室へ戻った。扉に手をかけたとき、後ろのドアから見えてしまった──かわいいとそう言って、深白の頭を撫でるあなたが。


 瑞月には助言できても、自分はそれを実行できない。そうやって暗い考えでいたから、私はその姿に嫉妬してしまったのかもしれない。


 あなたの声がかわいいと囁くなら、それを受け取るのは私がよくて。あなたのその手が触れるなら、それも私がいい。


 そんなふうに拗らせた──嫉妬できる立場でもないのに。



「ごめん、傘重い?」

「んーん」

 そんな自分に飽き飽きして、私は文化祭前日の帰り道、秋雨あきさめに打たれながら口をつぐんでいた。

「…さむい?」

「さむくない」

「……どっか寄って帰ろうか?」

「……」


 気を遣うあなたの優しさが余計に沁みてしばらく黙り込んでいると、あなたが重苦しく口を開いた。


「………春、瑞月といた方がたのしい?」


 あなたのその一言で、最初で最後になったこの喧嘩が幕を開けた。

 あなた以上に私の心を震わせる人なんていないのに。それをわかってほしいのに。


「……それはきょうちゃんでしょ。深白のこと好きなの?」


 気づけば嫉妬というもやがその形を明確に、言葉として口から出ていってしまった。


「はい?なんでそうなるわけ?」

「深白のこと、かわいいと思ってるくせに」

「春も深白にかわいいっていうじゃん」

「それとは別でしょ」

 醜い感情が止まらなかった。


「……春こそ、瑞月のことどう思ってんの…」


 あなたの言葉に私は自転車を飛び降りて、そして初めて一人で家路についた。


 私があなた以外に好意を寄せるわけがない。あなたしか見えていないし、あなたが好きだから私はこんな、、、になってしまったのに。

 それなのにたった二文字も言えず、出てくるのはあなたを傷つける言葉ばかり。

 

 わかってほしくて、言えなくて、傷つけて、傷ついて。

 私はもうなにが嫌なのかも曖昧になって、ぐちゃぐちゃの感情を雨で洗い流すように、傘から逃げ出した──。



 そして文化祭当日、あなたの姿は学校になかった。それもそのはず。私があなたの連絡を一切取らなかったのだから。

 あなたの優しい声を聞けば、私はまたそれに甘えてしまう。だから電話を取ることも、きっと"ごめん"と書かれているチャットを開くことも、あのときはできなかった。

「頃とどうしてそうなったの?」

「……」

「春ちゃん、言って」

 こういうときの深白は、四人の中で一番イニシアチブが高い。

「私が嫉妬したから…」

「だれに?」

「きょうちゃんと……深白見て…」

「わたし?!…なんでぇ…」

「……きょうちゃん、頭撫でてた。」

 二日目の自由時間、私は深白に聞くに堪えない話をポツポツと吐き出していた。

「んーそうだったかなぁ…でも私──」

「わかってる、深白のことはわかってるし…そこに瑞月がいるのも知ってる」

 深白の胸のあたりを指差してそう言った。

「……ちがうの…私、きょうちゃんに言えてないことがある」


 このときだっただろうか。深白にすべてを話したのは。家のことに結婚のこと──もうすぐあなたから離れなければいけないことも。その全部、あなたには言えないのに、深白に言うのはおもしろいほどに簡単だった。


 私は自分が醜かった。


 嫉妬したのは、深白にじゃない。いつかあなたの隣に立つその誰かに、私は嫉妬の雨を降らせていたのだ。深白の姿に、知りもしない先の相手を重ねて。


 それが自分ではないと、分かっていたから。


 すべて聞き終えた深白はなにも言わずに私を抱きしめた。小さいその手で、力いっぱいに。

 私は少し泣いて、深白も少し泣いていた。

 これ、返すね──最後に深白はそう言って、私の頭をそっと撫でた──。



 涙が乾いたころだったか。クラスメイトの何人かが焦り気味に私に声をかけてきたのは。


 ──なんか保護者受付に、やばい人たちがいて…。

 ──"春呼んで"って、言ってるんだけど…科木さんのことじゃないよね…?


 私と深白は頭にハテナマークを浮かべたまま、一応…行く?と、保護者受付のある一階に降りると、そこには見知った顔がふたつ。


「あ、いたいた!春ー!」

「おう、サンタぁ」

 その場になに一つとして合っていない柄の悪さを放ち、こちらに手を振ったのはゆうさんと成留なるさん。

「うわぁ…」

「だ、だれ……?」

「きょうちゃんのお姉さんとその相手の人…」

「あぁ~……なるほど…」

 その見た目から深白もずいぶんとしっくりきたようだった。

「サンタまた動物連れてんなぁ。なにその子猫」

「……」

「がおー!!っと。あ、わりわり」

 ドンッと一歩足を踏み出し、両手で脅かすような素振りを見せる成留さんに、深白が腰を抜かした。

「ちょっと、成留さん!だめですよ!きちゃうから!」

「なにが?」

 そう言っているうちに、騒々しい足音がすぐ後ろまで。ほんとにいつも、どこから嗅ぎつけてくるんだか。

「ほらもう…めんどくさい…」

「深白、大丈夫?…この人たち、誰」

 成留さんを敵とみなした瑞月がものすごい形相を浮かべて。おっ?と成留さんが楽しそうに眉をあげたところで、そこに割って入ったのは結さん。

「はいはい、おわり。めんどくさいのはこっちだっての」

「あーそうだったわ」

「春、行くよ」

 そう言って結さんがこっちに来いと、指で私を呼びつけた。

「え、私まだ──」

「成留美、連れてきて」

「ほいほい」

 そのまま私は成留さんに担がれ連れ去られるのだった。

 ──瑞月、がんばって!

 去り際、このあと想いを告げると言っていた瑞月に口パクでそう伝えて。


「あのガキずっと壁にボール投げつけて拗ねてんの、まじうるさい」

「……」

「どうせ頃がなんかしたんでしょ?」

「……」

「え、春なの?」

「………」

「…ったく、雨ってだけで鬱陶しいのに……とっとと解決して」

「よくいうよ。自分だって…」

「成留美、うるさい」

「へーい」


 そうやって私の文化祭二日目は、勝手に二人が終わらせてしまった。──でも、それも今では思い出せば笑顔になれるような楽しい思い出のひとつ。



    *********


 

「とりあえず座って」

 あんたうるさいから拉致ってきたわ──そう言って結さんに投げ込まれたあなたの部屋。

 空気が重いのは、秋のせいか雨雲のせいか。その喧嘩のせいか。

 佇んだままの私に、あなたはベッドをトントンと叩いて。

「時間、大丈夫?」

 こんなときでも、私を気遣ってくれた。それが苦しくて、私は下唇をヒリッとするくらいに噛みしめた。


「…はぁ……こっちきて」

 あなたはボスッとベッドに背中を預けると、そのまま私の手を取って引き寄せた。その腕の中にぶつかるようにして収まると、頭にあなたの手が降ってきて、それから優しく撫でられる。

 スーッと。あなたが息を吸う音がして、ゆっくりと口が開かれた。


 ──ごめん。

 ──あんなこと言って。

 ──……瑞月に嫉妬した。最近、春ずっと一緒にいるから…。

 ──前に春が、瑞月と私を似てるって…そういうのもあって。

 ──…傷つけてごめん。


 どうして。謝るのは私の方なのに、なんであなたが。

 あなたはこんなにも優しいのに、どうして私は。


 いろんな想いがこの恋をかき混ぜたから、私は涙を止めることができなかった。あなたのグレーのパーカーに、それが水玉のようにポタポタ染みて。

「謝ってほしいわけじゃない…」

「うん」


 違う。

 本当に言いたいことはそうじゃないのに──。


「好きだよ」


 そう思っていたとき、大好きなあなたの声が言った。私が本当に言いたかったそれを。

 同時に瞼にあたたかいものが降ってきて。

「好きだよ、春」

 離れるともう一度。

 形にならない想いを、あなたの声が囁いた。


 苦しい。苦しい苦しい。

 それなのに、あなたが好きでたまらない。そう想ってしまう心があふれて止まらない。

 

 あなたの瞳に映った私の泣き顔は、どうしようもできないその想いを必死に伝えているようだった──。



    *********


 

「え、あの二人付き合ってなかったの?!」

「きょうちゃんがそんなんだから、瑞月は私にだけゆったの」

「あー、はっは…」

 そのあと瑞月の相談の話を打ち明けると、やっぱりあなたは何も気づいていなかったようで。

「深白やるなぁ…」

「…また深白の話?」

 深白と二人で何を話していたのかは知らないけれど、私はまたやきもちを焼いたふりをしたり。

「いや深白に思うかわいいと、春に思うかわいいは全然ちがうから」

「どう違うの?」

 すっかりもとの雰囲気に戻ったのが嬉しくて、あなたとそうやって話すのが楽しくて。

「……あれは赤ちゃんとかそういうのと同じで」

 いつものノリで話していたから、考えもしなかった。


「春はその…そこにいるだけでいいっていうか…白いつつじが、風に揺れてる…みたいな…」


 あなたがそんなことを口にするなんて。

 そんなふうに、思っていたなんて。


 私はぎゅっと、これ以上ないくらいの力と想いを抱えてあなたに抱き着いた。

「ほんときょうちゃんってばか、へんてこなことばっか言う」

「…ごめん」

「私、ほかの人なんか──…」

「……春?」


 言葉に詰まる。

 言いたい。言ってしまいたい。


 ほかの人なんかいらない。

 きょうちゃんだけでいい。

 きょうちゃんが好き。


 それを声に乗せることができなくて、私はあなたの腕の中で縮こまっていた。

 そのとき、あなたがそんな私の背をそっと撫でて微笑んだ。ゆっくりでいいよ──そう言うように。


 だから、言葉にできないこの想いが伝わってほしいとそう願って。


「きょうちゃんだけだよ。私はずっと──」


 そんな小さな声が、私の精一杯だった。ずっとずっと、あなたがどんな人と一緒になっても、私が結婚しても。

 

 私の好きは、きょうちゃんだけだから──。


 聞こえたかな?そう思って、首をかしげ顔を覗いたとき──初めてあなたの涙を見た。

 透明なその雫が私の心の水面に落ちて、静かにその輪を広げていく。あなたがくれた光がその輪に反射して、心がきらめきの中に揺れた。

 

 その涙に届く距離にいるのに、私にはそれをすべて拭うことはできない。


「今日…泊まっちゃだめ?」


 だから、せめて。この日はずっとあなたのそばにいたいと思った。

 

 涙を溜め込んだ瞳が微笑んで唇にあなたのそれが触れると、肌寒い部屋で強く抱きしめ合った。

 私はもうすぐ離れなければいけないと知りながら、あなたという光を両腕に閉じ込めた。







 ──卒業式、送らなくていいよ…きょうちゃん…。

 

 眠るあなたの耳元で静かに呟いた私の言葉は、雨音に流れて消える。

 翌日の雨上がりの空は、いつもより儚げな顔をしていた。












 そして私は、あなたの前から姿を消した。


 初恋を、風に散らして───。




 

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