第二話① 才能ある少女と将来の悩み
新緑の香りが、夕暮れの柔らかな風に乗って無名庵へと運ばれてくる。店番台の奥で、店主の源は静かに古書を繰っていた。
彼の足元には、艶やかな黒い毛並みの猫が、上品に丸まっている。首元の小さな鈴が、かすかに時を刻むように鳴った。
「ミャア」
戸が開く音に、黒猫は細い体を起こした。不安げな面持ちで佇む少女に気づき、警戒するように小さく喉を鳴らす。しかし、その足はゆっくりと少女へと近づき、やがて彼女の足元で立ち止まると、スンスンと匂いを嗅ぎ始めた。黒く長い髪を三つ編みにした、少し大きめの制服を着た高校二年生。名は、雫といった。
「あの……」
俯き加減の雫の声は、震えている。手の中で、握りしめた鞄の紐が、彼女の心の揺れを映し出していた。
「少し、お話を聞いていただきたくて……」
「ええ、どうぞ。言の葉、お客様を茶室へ案内してくれるかな?」
源が黒猫に優しく声をかけると、言の葉は「ミャウ?」と小さく首を傾げた。それでも、どこか気遣うように、ゆっくりと少女の前を歩き出す。
源と雫は、言の葉の後について、店の奥にある茶室へと向かった。古びた掛け軸、静かに時を刻む掛け時計、ほのかに漂うお香の香り。都会の喧騒から隔絶された静謐な空間が、雫の張り詰めた心をわずかに解きほぐした。
茶室に入ると、言の葉は柱の陰からじっと雫を観察している。かと思えば、突然、気を引くように雫の足元に転がり、小さな体でじゃれついた。
その行動に少女の様子がさらにやわらいだ。
「どうぞ、お掛けください。言の葉も、そこにどうぞ」
源に促され、雫は畳に腰を下ろした。
黒猫は、彼女の隣にちょこんと座り、時折、見上げるようにその顔を見つめる。
しばらくすると、源は、奥から盆を持って戻ってきた。その上には、湯呑と小さな白い角砂糖入れ、そして可愛らしい焼き菓子がいくつか並んでいる。それは、色とりどりのジャムを乗せた小さなタルトレットだった。湯呑には、琥珀色の液体が揺らいでいる。
「どうぞ。少し甘いものでも召し上がってください」
源は、湯呑とタルトレットを雫の前にそっと置いた。
雫は、そっと深紅のジャムが載っているタルトレットを手に取った。表面のジャムがキラキラと光っている。
一口食べると、サクサクとした生地と甘酸っぱいジャムの風味が口いっぱいに広がり、緊張で強張っていた心が、ほんの少し和らいだ気がした。
「お茶もどうぞ。これは和紅茶といって、日本の土地で育った茶葉を発酵させたものです。いわゆる一般の紅茶よりも渋みが少なく、少しメンソールのような香りと、優しい甘みがあるんですよ。こんな日に似合う紅茶だと思います。」
温かい和紅茶を一口飲むと、その少しメンソールのような香りが鼻を抜け、さらに心が落ち着いた。
「ありがとうございます……」
雫は、小さく呟いた。
その表情は、先ほどよりも幾分かやわらかになっている。
源は、自分の湯呑を手に取り、静かに一口飲んだ。
「今日はほかに予約もありませんから、まずはごゆっくりしてください。」
二人は、しばらくの間、紅茶と菓子を味わった。茶室には、甘い香りと、静かな時間が流れている。
言の葉は、雫の足元で丸くなり、時折、タルトレットの甘い香りに鼻をひくつかせたりしている。
やがて、雫はゆっくりと湯呑を置き、もう一つ、紫色のジャムが乗ったタルトレットをゆっくりと口に運んだ。ぶどうの香り、優しい味と甘さがじんわりと舌の上に広がっていくのを感じながら、彼女は意を決したように、ゆっくりと口を開き始めた。
「あの……実は、今日、お話させていただきたいことがあって……将来、何になりたいのか分からなくて……」
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