第一話④ エピローグ~新たな光を見つけて

 数日後、静子は再び無名庵の引き戸をくぐった。しかし、その姿は、数日前の彼女とは全く違っていた。


 背筋は以前よりも伸び、表情は明るく、瞳には確かな光が宿っていた。


「いらっしゃい、静子さん。今日は、ずいぶんと晴れやかなお顔ですね。」


 源さんは、静子の変化に気づき、微笑みながら声をかけた。


 「ええ、源さんのおかげです。あの後、少しずつ、自分の心と向き合う時間を持つようにしました。まずは、夫の会社の経営戦略について、積極的に意見を出すようにしました。最初は戸惑っていた夫も、私の意見に耳を傾けてくれるようになり、一緒に経営について考える時間が増えました。そして、ビジネススクールにも通い始めました。新しい知識を学ぶことは、とても刺激的で、毎日が充実しています。夫も、私が積極的に経営に関わるようになったことを喜んでくれています。会社の皆も、『静子さんがいてくれるから、安心して仕事に集中できる』と頼りにしてくれています。これからは、皆の期待にも応えられるよう、私も会社経営について、もっと深く関わっていきたいと思っています。」


 静子は、嬉しそうに、源さんに話した。

 その言葉からは、以前の彼女からは想像もできないほどの、前向きな気持ちが伝わってきた。


「それは、素晴らしいですね。静子さんが、ご自身の心の宝石を見つけられたこと、心から嬉しく思います。」


源さんは、静かに微笑んだ。


「はい、源さんのおかげです。あの時、源さんが私に話してくれた言葉、そして、あの茶碗との出会いがなければ、私は、まだ、暗闇の中にいたかもしれません。」


静子は、源さんに深く感謝した。


「いえ、私はただ、静子さんの心の声に耳を傾けただけです。大切なのは、ご自身で気づき、前に進む力を見つけることですから。」


源さんは、そう言って、静かに微笑んだ。


「それでも、源さんには感謝しています。本当に、ありがとうございました。」


 静子は、再び頭を下げ、無名庵を後にした。その足取りは、数日前よりもずっと軽やかで、その表情は、希望に満ち溢れていた。


 無名庵の引き戸が静かに閉まると、源さんは、静かに目を閉じた。膝の上では、いつのまにかやってきた黒猫が穏やかな寝息を立てている。

 源さんは、そっとそのシルクのようなやわらかな毛並みを撫でた。


 源さんの視線の先には、静子がかつて手にしていた黒楽茶碗「禿」があった。

 煤けたような黒色の表面は、光を鈍く反射し、指の跡がわずかに残っている。

 しかし、その無骨な肌合いの中には、確かに、静子の心の変化を映し出すような、温かい光が宿っているように見えた。

 それは、磨き上げられた宝石のような強い輝きではない。むしろ、静かに、しかし確かに、内側から溢れ出すような、柔らかな光だった。

 茶碗の表面には、使い込まれた跡が残り、まるで老人の皺のような、独特の侘びた風合いを醸し出している。しかし、源さんの目には、その茶碗が、まるで、静子の心の変化を映し出す鏡のように、美しく輝いて見えた。


「人は、誰でも、心の奥底に美しい宝石を秘めている。ただ、それに気づいていないだけだ。しかし、いつか、その宝石が輝き出す時がくる。その時、人は、本当の美しさに気づくことができる。」


源さんは、そう呟き、静かに目を閉じた。無名庵の静寂の中に、源さんの穏やかな声だけが、静かに響いていた。

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