第3話 新緑ときみ

 秋本さんは私と一緒に帰るようになった。行きは通学班で行くので、結果として毎日一緒に行き帰りすることになった。

 秋本さんに呼び方は光希でいいよ、と言われた。授業が少しずつ始まり、給食が出るようになった。数学の授業が難しかった。国語は長い小説を題材にしてあった。

 そんな毎日あった出来事を、日記に書いていた。一つ一つ取りこぼさないように、掬い取るように、小さな出来事を当時の私は書いていたようだった。光希が読んでいるSF小説『エンジェルウィスパーズ』は、4月が終わりを迎えそうな頃、ようやく読み終えたと、そう書いてあった。

 内容ははっきり言って難しかった。売れないミュージシャンの主人公が世の中の不条理に争い続けるように、音楽を作るが、人生が波瀾万丈だ。自分の活躍を期待していた母親がある日事故で死んで音楽が作れなくなってしまう。音楽を作れない自分を否定した結果、主人公はビルから飛び降りた。すると、音楽を作り始めた高校生の頃にタイムリープしてしまう。自分が音楽をやる意味とは。必ずしも形を成すわけではない趣味が、人生にもたらすものとは何か。今となってはとても考えさせられる作品だが、当時は何も分からなかった。ただ、主人公が可哀想な目にあっていて大変だなあと思うことしかできなかった。

 読み終えた次の日の通学中、光希に話しかけた。

「『エンジェルウィスパーズ』読んだよ」

「おー!どうだった?」

「ちょっと難しかったなあ。よくあんな本読んでいられるね」

「私も難しくて大変だったよ」

 笑いながらそう言う光希は、何か思い出したようだった。

「あ!そういえば、クラブって何入るか決めた?」

 私たちの小学校は小5から、放課後の1、2時間でクラブ活動を行うことになっている。クラブの加入は強制で、さまざまなものがある。例えば運動系はバスケ、ソフトテニス、バレー、野球、サッカー、バドミントンなど比較的ポピュラーなものがあった。それ以外は、吹奏楽、パソコン、イラスト、家庭科などがあった。

 私は運動はしたいけど、厳しいのは心身ともに疲れてしまうので嫌だった。なるべくなら緩く続けられそうなものがいい。

「うーん、家庭科とバドミントンで迷ってるんだよね」

「私も!家庭科は料理をやらずにお裁縫ばっかりって聞いたから、正直ついていけるか心配なんだよね」

「そうなの?!えっと、光希はお裁縫苦手だったりするの?」

「別にそういうわけじゃなくて。なんか、家庭科部って、料理するイメージあるじゃん?ちょっと違うかもって思ってきちゃって」

「それわかる!家だとあんまり料理作ったりしないからさ。この機会に料理、やってみたいのにね。どうしようかな、バドミントンクラブにしようかな。ゆるいって聞いたし。」

「私もそうする!決まりだね、玲!」

 ぱあっと笑顔を咲かせる光希はとても可愛かった。

 こうして、私たちはバドミントンクラブに入ることを決めた。


 バドミントンクラブは放課後に週に二回の活動で、主に試合をした。未経験者がほとんどで、テレビでやっている試合のようなスマッシュをやれる人は憧れを抱かれていた。私も光希もその1人だった。

 最初の方は6年生の子にラケットの握り方やサーブを教えてもらった。ダブルスを光希と組み、くじ引きで当たったチームと試合をした。そのとき、その経験者2人組と試合をし、惨敗したこともあった。けれども、私たちは笑っていた。とても楽しかったからだ。玲と過ごす時間が、楽しい瞬間を共有することが、かけがえのないものになっていた。私は運動がそこまで得意ではないが、光希は物覚えが早いので、いつのまにか簡単にスマッシュを決めることができるようになっていた。試合中、それをずっと隣で見ていた。私も、玲のようにできるようにならなくちゃ。そうやって、玲についていくことができるように、初めて努力というものをした。スマッシュができる人を観察して、何度も素振りをして自分に落とし込んだ。

 数ヶ月後、私もスマッシュを試合で決められるようになった。


 7/5(水)

 やっと、試合でスマッシュが出来るようになった。光希が隣で目を大きく開いて、びっくりした後、わたしにかけよってきた。「玲!!すごいよ!!玲!!」何度も名前を呼んで喜んでくれた。とても嬉しかった。努力ってこんなふうに報われていくんだと思った。もっとバドミントンできるようになりたい。試合でもっと勝てるようになりたい。そんな思いが一気に頭の中に浮かんできて、ワクワクしてドキドキして、目がさえてしまっています。今日はねられるかな。


 私はこの文章を読んで、耐えきれなくなった。喉から込み上げる胃液を、飲み込もうとした。けれどできなくて、トイレに駆け込む。はあはあと、吐いた息が個室に響く。

 今の私はそんなふうに、素直に光希の言葉、態度を受け止めきれない。あの頃は互いに無垢で、純粋に尊重する心があった。今の私はそんなこと忘れてしまって、光希にばかり執着している。いつの間にか私だけが汚れてしまったようだった。あの頃はお互いに綺麗だった。思い出の中の日々の鮮やかさに、私はつい、目が眩んでしまった。

 あの頃から、もう既に光希の方が先へ行っていたのに、私よりもうんと遠くで頑張っていたのに。そうやって私のところまで来てくれる。私を褒めるために。そんな光希がたまらなく優しくて、たまらなく悔しかった。私が何もかもできない人間だと、そうやって自覚させてしまう光希を、少しだけ憎んでしまう。光希とともにいるだけで全能感に溺れてしまっていた、あの時はそのことにまだ気づけなかったようだった。

 ため息を吐くことでしか、行き場のなくなった感情を吐き出すことができない。少し気持ち悪さが落ち着いたので、部屋に戻ることにした。

 もう、私は光希と関わらない。もうこんなのいらない。あの頃が一番綺麗な私だった。あの頃のまま変わらないでいたかったのに。日記のページを破り捨てようとする。紙をビリビリと思いのままに破り捨てて、終わらせたい。しかし、指先に力が入らなかった。

 たとえ思い出の中だとしても、光希だけは汚したくない。今、自分がページを破ってしまえば、あの頃の光希がもういなくなってしまう。

 やっぱり、私は光希のことが好きなんだ。そうやってまた自覚してしまう。なんで好きになってしまったんだろう。光希はあんなこと言ったのに、私はこんな気持ちを隠して一緒にいるなんて、人としておかしい。隠して、押し殺したはずなのに、好きな気持ちが燻ってしょうがない。だから、離れるんだ。だから全て、終わらせるんだ。好きな気持ちを悟られないようにするんだ。そう思って、夢も希望も何もない私のこれからにまた指標を作る。

 身体もうまく動かないし、とにかく頭の中にごちゃごちゃと、まとまらない考えが居座っている。しかも、何か思い出そうとすると、頭の中に白くもやがかかったみたいになって、途端に思い出せなくなってしまう。もう何に対しても希望なんてない。とにかく、あとは終わらせるだけだった。

 でも残り四日間残っている。光希のせいで暇になった時間を埋めるように、また日記を開く。それしかやることがないからだ。

 カーテンの隙間から溢れる光で、夜が明けたことを知った。それを見た直後、お腹がぐーと鳴る。

 なんで、お腹が空くんだよ。頭の中では生とは真逆なのに、体は生を全うしてることに対し、苛立ちそうになる。その気持ちを抑えながら、一階に降りてお湯を沸かす。カップ麺にお湯を入れ、数分待って、スープを口に運ぶ。味がしない。生命維持のために食べてるような気がする。麺を啜る。また味がしない。味のしない麺を噛む。きっとニット糸を食べるとこうなるのかなと思った。美味しくない。

 半分ほど残した。茶色く染まったスープに浮いている油が、私を動かす機械油のように見えた。


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