歯型に代わる煙

飯田華

歯型に代わる煙

 見透かされている。知られている。

 私の醜い感情を、意地汚い独占欲を。

 そうと分かっていても、彼女を抱く前、私はゆらゆらと煙をくゆらせていた。

 

 

 

 






 

 不貞行為というのは、一体どこから『不貞』と見做されるのだろう。

 最近、そんなことを脳裏の片隅で考えている。もちろん、法律上でのきっちりとした定義はあるんだろうけど、今言っているのは個人的で捉えるところの『不貞』の分水嶺だった。

 

 身体の関係が発生してからだろうか、それとも、心がパートナー以外の人間に移ろいだ瞬間からだろうか。前者は肉体関係に主軸を置いた捉え方で、後者は精神的な移り気全般に焦点を当てた捉え方だ。

 私としては、前者はもちろん不倫と見做されると思うけど、後者に関しては一考の余地があるんじゃないか? と思っている。

 

 自分の恋愛的な琴線に、パートナー以外の人間がひっかかる瞬間。

 人生百年時代、そんな一幕に今後一生出会わないという保証はできやしない。季節ですら毎年決まったペースで移ろうのだから、人間であればなおさらだ。

 

 

 

 そんな持論を風音さんに聞かせると、彼女は真剣な面持ちを数秒間保った後、何がおかしいのか、盛大に噴き出した。午後五時半、山間の道を慎重に通過するバス内に弾むような笑い声が満ちる。

 

「何がおかしいんですか」

 結構真剣に考えた論を笑いものにされてふくれっ面になった私を見て、風音さんはなおも笑い声を立てる。

「あははっ! いや、ちがくて。別に不貞行為どうこうは関係なくて……くゆりちゃんの口から『人生百年時代』だなんて言葉が出るの、とっても不自然だったから」

「…………保険のCMだとか、思いました?」

「うん、そう……ふふっ! 今度出てみたら?」

「出られませんよ、そんな簡単に」

 言葉のチョイスを笑われたのは少々癪だったけれど、風音さんが噴き出すところなんてそうそう見られるものじゃないから、まぁいいか。

 

 未だに思い出し笑いの残る風音さんを横目で見つつ、バスの進行方向に想いを馳せる。

 都市圏から少しばかり離れた温泉街へ続く舗装道路はところどころ凸凹しているらしく、ときどき車体のサスペンションでは防ぎきれない振動が、不快なテンポで席を揺らす。ガタンゴトンと、電車に揺られているわけでもないのに車窓が微かに動いて、車酔いしやすい私はできるだけ外の景色を眺めていなければならなかった…………本当は、横にいる風音さんばかり見つめていたかったのに。

 

 心中でそう呟いて、それでもテンションは麓へ近づくたび舞い上がっていく。風音さんも同じなのか、笑い声が聴こえなくなった後は上機嫌で鼻歌を奏でていた。

 

 そのまま沈黙を貫いているのはなんなので、風音さんはどこからが『不貞』だと思うか訊いてみた。

 

「私は後者かなぁ? だって、感情が動いてるんだし」

 現に、こうやってね。

 

 そう付け加えた後、左の頬に軽く、柔らかいものが触れた。

「…………ここ、バスの中ですよ?」

「あはっ、誰も見てないって」

 

 私の朱色に染まった頬を見て満足したのか、風音さんはいたずらな笑みを浮かべ、再び鼻歌の演奏に戻っていった…………してやられた。

 

 

 

 バスは進む。

 いつもは左手の薬指にはめている指輪をどこかへ仕舞い込んだ風音さんと、一泊二日の温泉旅行。

 何がどう転んでも『不貞』と見做される旅路に、今から胸が高鳴っていた。

 

 

 

 

 

 

 同じ総務課に勤める、二年先輩の風音さん。彼女とそういう込み入った関係になったのは、偶然が重なってできたものだった。たまたま私の教育係に風音さんが選ばれて、お互いの自宅の距離が近くて…………そして、感情が双方向に向かい合って。

 

 初めて言葉を交わしたときから、私は彼女に惹かれていた。

 人好きのする垂れ目は相対する人間に心の隙を作って、会話のつど差し込まれるカラコロとした笑い声は心地よく鼓膜を揺らす。それでいて表情の動きは今ドキの女子高生くらい溌溂で、見ていて飽きがこない。

 端正に整った顔立ちと、あどけない所作。首筋辺りで結った黒髪は柔らかな光沢を放っていた。

 私のタイプそのものだった。

 

 風音さんは確か、「くゆりちゃんは犬っぽいから好き」と言っていた……褒められているんだろうか。まぁ、好かれているのが確かであるなら何でもいいんだけど。

 

 

 

 

 風音さんの夫が単身赴任で家を空けていることも相まって、私たちはつつがなく不倫関係を構築していった。会社ではだいそれた行動は起こさないまでも、互いの家を訪ねたり、近所の喫茶店で逢瀬を重ねたりを頻繁に繰り返した。

 傍から見れば先輩と後輩。けれども、『不貞』らしいことは大体済ませていて、自分でも非情な行いをしていると分かってはいても、もう、後戻りはできなかった。

 

 今回の逢瀬は『温泉に入った後、広縁でくつろぎたい』という風音さんの具体的な容貌から、温泉宿に部屋を取ることとなった。

 二人部屋。大きな広縁……そして、あと一つ。

 条件の合う旅館はすぐに見つかって、今日この日を迎えたというわけだった。






「ひろっ!?」

 思ったより面積のあった広縁に、驚きの声が隠せなかった。

「おぉ~くゆりちゃん、奮発したね」

 風音さんの方は落ち着き払った調子で呟き、部屋内を物色し始めた。

掛け軸。紫色の座布団二つ。障子の開け放たれた窓の向こうに聳える、景観を邪魔しない程度の竹林。

 最後に広縁に据え置かれた椅子に腰を下ろして、「ほぉ~」と、腑抜けた声を漏らした風音さん。大変満足しているようで鼻が高い。


「いいね、こういうの。温泉宿なんていつ振りかなぁ。中学生以来かも」

「旦那さんとは、こないんですか?」

 少々言葉に詰まりながら、問いを投げた。

「来ない来ない。あの人、旅行に興味ないし」

 

 夫のことを語る風音さんの声色はそっけない。

 別に夫婦仲は冷え切っていないらしいけれど、本人曰く、「良い人ってだけだね」らしかった。あと、「無菌」だとも評していたのを覚えている。


 無菌。清潔の象徴であるような二文字は、風音さんにとっては退屈そのものであったようだ。

 

 安定していて、だからこそ刺激の乏しい毎日。

 その『刺激』になっているのが私だと思うと、いつも足先がふわりと浮かび上がるような感覚に陥ってしまう。最低な優越感だと思いながらも、それに浸らない選択肢は選べなかった。

 

 

 






「で、さ」

 私の方へ向き直った風音さんは、さっきのいたずらな笑みを復活させていた。

「この部屋はさ、喫煙できるの?」

 にやにやと、好奇心と……柔らかな加虐心に満ちた表情はこちらの心情全てを見透かしているようで背筋がぞわぞわと逆立つ。けれど、嫌ではない感覚で。

 これこそ、恋が作り出す鈍感なのかもしれない。

「できます、けど」

「ふぅん…………吸いたいんだ」

 風音さんの目が、妖艶なスピードで細められる。

「いっつも、私がやめてって言ってるのにね」

 文面通りの拒絶ではなく、言葉の節々には面白がる色合いが滲んでいる。


「嫌なら、吸いませんけど」

「本当にぃ?」

「風音さんが本気で嫌なら、私は絶対吸いません!」

「どうだかね」

 

 このままだと完全に相手のペースに呑み込まれてしまう。

 意図的に夕食の話に方向性を切り替えた。

 今日の夕食は鯛のホイル焼きがメインディッシュの豪華ラインナップ。食事に関しては私の好みを優先するよう言われていたから風音さん側の反応が不安だったけど、お気に召したらしい。

 ちらちらと右手に巻いた腕時計を確認し、夕食の到来を待ちわびる風音さんを横目に、私が考える。

 

 携えてきた旅行鞄の底にはお気に入りの銘柄が仕舞い込まれていて、いつでも取り出せる。私の意志によって。

 風音さんとこうやって逢うときは大抵点けている火を、今日も灯すのか。さっきの否定をよそに、自分の発言に責任が持てないでいた。

 

 

 

 

 

 豪華絢爛な夕食を平らげ、心身癒される湯治を終えた後、帰ってきた部屋には二人分の布団がすでに敷かれていた。静謐を浸み込ませた畳の上、私たちの呼吸音はどこか切羽詰まっていて、やっぱり『今』が間違いであることを、どちらも分かっている風だった。

 それでも風音さんの方は平然としていて、「よぉ~し、とりあえず寛ごうかな」と言って、広縁の椅子へと向かう。

棒立ちになっている私を手招きするくらいには余裕で、その大人びた態度が今となっては羨ましく思った。


「くゆりちゃんも、ほら」

 指差された対岸の椅子に腰を下ろして、風音さんと向かい合わせとなる。

 きめ細やかな湯に浸したその肌は、いつもより白磁の陶器めいて見えた。

 浴衣の生地によって隠されていない部分……とくに首元に視線が吸い寄せられて、「あぁ、遠い場所に来たんだな」と実感する。

 後輩としてではなく、愛人として。


 不健全な飛び石を渡って辿り着いた先は、好きな人が目の前にいる広縁だった。


「どうしたの、じっと見て。浴衣姿、新鮮?」

「とっても、綺麗です」

「あはっ、ありがとう。くゆりちゃんも似合ってるよ」

 伸ばされた左手が、私の頬を柔く掠める。

 何を身に着けていない薬指を認めて、安心して。

 それでも心の水底ではじわじわと、醜い感情が蓄積し始めていた。

 

 それを予期していたかのように、風音さんは言葉を並べる。

「今日も指輪、付けてきてないよ。その方が良かったでしょ?」

「…………えぇ、まぁ」

「あははっ! くゆりちゃん、嫉妬深いもんねぇ」

「からかってます?」

「いいや、嬉しいと思って」

 

 嬉しい。

 祈るようにその言葉を重ねた風音さん。頬を触っていた指先が耳たぶへと移動していて、少しくすぐったい。

 

「くゆりちゃんは私に対して全力だから、嬉しい。仕事中にちらちら様子を窺ってきて、こっそり逢うときはガン見してきて。

 私の姿が映る瞳がキラキラ輝いてて、純粋だなって、まっすぐだなって思う」

 純粋で、まっすぐ。

 不倫をしている自分にとっては真っ当すぎる評価に思わず苦笑してしまう。

「だから、『犬っぽい』」

「え? あぁ、確かそんなこと言ったっけ。うん、犬みたい。がるがる嫉妬してる感じがまさに犬」

 ポンポンと頭を柔く叩かれ、頬に微熱が混じる。これは犬というより、子供扱いじゃないだろうか……気分が良いから何も言わないけど。


「風音さんは、私に嫉妬させたいんですか?」

「もちろん! 必死になってるくゆりちゃん、可愛いからね」

「性格が悪い…………」

「そりゃあそうでしょ、性格が悪くなかったら不倫なんてしてない。それに、性格が悪いのはくゆりちゃんも同じでしょ?」

 薄く笑う風音さんの視線の先には、私の旅行鞄が。


「ほら。性格悪くなって、いいよ」

 その許可ほど、意地の悪い言葉はないと思う。ひどい促しだ。

 けれども私は犬っぽくて、純粋でまっすぐだから、いそいそと立ち上がり、旅行鞄の底を漁りに向かう。

 お目当てのものはすぐに見つかった。

それとライターを悠然と引っ張り上げて、喫煙の準備をつつがなく行う。点火した後で広縁に戻ると、「やっぱり」と言いたげな風音さんの視線がぶつかった。


 私が煙草を吸い終わるまで、風音さんは静かに待っていた。からかいの色を表情に浮かべず、窓の向こうに立ち込める夜闇を見据えていた。

 

 吐く煙に、どす黒い欲望が混ざる。心根が醜い歓喜をあげ、煙草を持つ指先は高揚感のせいでぶるぶると震えていた。




 灰皿に灰を落とし切った瞬間、一切の我慢を放り投げた。

 できるだけ自然な所作となるよう努めて、風音さんの手を取る。連れていく先は  当然、敷かれていた布団の片方だった。もう片方はしばらく使わない。今夜は使わないかもしれない。

 照明を消す余裕もなく、彼女の細い体躯を押し倒して、その上に覆いかぶさる。

 私を見上げる二つの瞳は物欲しそうに潤んでいて、それでも口元は余裕たっぷりの微笑を湛えていた。

 どうやっても勝てないなぁって思う。

 挑戦的でもある唇の艶やかな光沢が視界を埋め尽くす最中、彼女との距離をゼロにする。

 拒絶はなかった。無遠慮に口内に差し向けた舌も、断られることなくするすると入っていった。

 だんだんと意識が蕩け、攪拌していく。










 風音さんはつい数年前までは喫煙者だったらしい。けれど婚約によってすっぱりとその習慣をやめてしまい、「再開する気はないなぁ。健康に悪いし」といつの日か、笑いながら言っていた。

 だから今、彼女の家には煙が漂っていない。

 清潔で無菌な、彼女たちのことを想像したくなかった。脳裏でその輪郭を描いてしまえば、今が崩れ去ってしまう気がしたから。

 煙草を吸い始めたのは、それを訊いた後からだったと思う。

 

 以前彼女が吸っていた銘柄を摂取して、彼女と逢う。彼との生活では感じ取れない匂いを与える。彼女の眩い肌に噛みつく気には到底なれなくて。

 だから、嗅覚だけ。

 よくよく考えれば、本当に犬みたいなことをしていた。

 



 思わず零れた自嘲的な笑みを、風音さんは見逃さなかった。

 言葉はなく、こちらへ寄せてくる舌先の猛攻だけが苛烈になっていく。

 自ら無菌から遠ざかろうとしている風音さんは妖艶で、優しくて、私の全てを受け入れてくれて。


 今だけ、今だけはと念じながら、浴衣の襟に手を伸ばす。

 朝陽が昇るまで、彼女と私は同じ煙を吸い続けていた。

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歯型に代わる煙 飯田華 @karen_ida

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