第2話
そんな暗黙の事情を男性も熟知していたのか、章の問いかけに男性は戸惑ったように声を潜めて返した。
「すみません、暇だったんで話しかけちゃいました。今俺たち以外に誰もいなさそうなんで、良いかなって」
「はあ……」
男性は章から視線を外し、オフィス内をぐるりと見回して本当に誰もいなさそうなのを確認し、視線を戻す。その目には明らかに怪訝と疑惑が内在している様子であるのを、章はマスク越しにでもすぐに感じ取った。
「すみません、邪魔しちゃって……」
話しかけるのはまずかったかと後悔するも遅かった。
軽い感じで喋って終わらせようと章はすぐに思いつく。
「お仕事はしなくていいんですか?」
どの口が言ってんだよとまたすぐに考え直し、相手の答えを待たずに章は続けた。
「いや、あの僕、電話で呼び出しがない限りここでマニュアルを編集するよう言われてるんですけど。どうも集中力が続かなくって、ついあなたのことが目に入ってしまって読書しても良いのかなーって思って……」
ハハハと乾いた笑いを章は男性に向かって当てる。
「私はもう今日の仕事というか……やるべきタスクは終わったので余暇の時間に充ててただけなんですが……」
「あ、そうなんですね。じゃあ何も問題なかったですね」
自分で蒔いた種なのにどう刈り取るべきか章は既に方向性を見失ってしまう。ヤバいなと思うも章の頭では上手い返しも、良い切り抜け方も思いつけずにいた。
「そうですね、問題はないですね。やるべき領分を終えてればうちの会社は何も言われませんので。自由裁量が多いんです」
自由裁量。聞き慣れない言葉に疑問符を顔に貼り付ける。
その章の顔がマスク越しでも分かったのか、男性は目を柔らかくして笑った。
「本当にただ単に暇だったから、軽く話しかけてきた感じですね。その様子だと」
「そうです、そうです。すみません。バカみたいなことしちゃいました」
男性の目から鬱陶しいような疑念の感じが消えたのをこれ幸いと、章はホッと安心して頭を掻いて応答した。
「何かの勧誘かと思っちゃいました。たまにあるんで」
ああ、そうかと章は得心した。稀にノルマでもあるのか人材派遣の人や、法人向けのレンタル機器の営業の人がここで声をかけてくることが何度かあったことを章は思い出す。
「ありますよね! 俺も前にありましたよ! あ、でもあの俺は違います。営業職ですけど個人向けの営業はしてないんで、心配しないで下さい」
章は自分がプリンター会社の保守サポート業務を行っていることを説明しつつ、トラブルがあった際に対応する係として暇をしていた旨を説明した。
つまり、自分は無害の存在であることを相手に分かってもらおうと、要領悪く必死にくどくどと男性へ説明した。
誤解は既に解けたのか何回か同じ話を聞いているうちに、男性の態度と表情は初めより幾分と柔和になっていた。
「……あ、もう説明は大丈夫ですよ。何となくあなたの状況は分かりましたので」
これ以上の説明が不要であることを伝え、男性は苦笑しつつ開いていた本を閉じ、机の上に置いた。
「誤解というか、状況が伝わったなら良かったです。何回も説明しちゃいましたね」
章は安心して背もたれに背中をあずけ一息ついた。何の本を読んでいたのか好奇心から置かれた本をチラッと見るも、ブックカバーがかけられており読み取ることは出来なかった。
男性は椅子ごと章のほうへと振り向いた。
「私は週に三回しかここに来ないんですけど、毎日ここで仕事をされてるんですか?」
「いや、毎日ではないですね。水曜と木曜だけです。月、火、金は会社へ出社してるんで」
相手はちょっと驚いたような、疑問を持った顔を章に向ける。
「シェアオフィスは週二で使用して、他の日は出社されてるんですか? それって感染対策になるんですか?」
「そう思いますよね。俺もそう思います。いっそのこと毎日会社へ出勤かシェアオフィス勤務、もしくは在宅勤務にして欲しいと思ってます。でもなんか会社の方針で在宅勤務は禁止なんですよね」
「シェアオフィス勤務は許可されてるのに、ですか?」
相手が何となく理解できかねる様子なのを章は頷きながら共感する。
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