くすんだ想い

頭飴

第1話

 マスクの下であくびを噛み殺しながら目を細めつつ、笠原章かさはらあきらはシェアオフィスのドアを潜り抜けた。先程までの外の寒さを忘れさせてくれる、暖かな室内の充足感を味わいつつ、章はいつもの定位置の場所へとコートを脱ぎながら向かう。

 壁際の端側の席。そこが章の定位置だった。お洒落な喫茶店を思わせるこのオフィス内をほぼ見渡せるその場所が一番の好みだった。

 椅子に座ってノートパソコンを起動している間に周りを見れば、九時前だというのに四人しか人はいなかった。皆自宅で仕事をしているのだろう。


「いいなー」


 聞こえないように小声でボソリとパソコン画面に章は呟いた。

 シェアオフィスだかコワーキングだか、こんな高そうな所に会社はお金を出していようとも、やはり在宅ワークが出来れば家から出たくないのは皆一緒なのだろう。一月の冬の寒さを思えば尚更だ。俺も在宅で仕事が出来ればそうしたかった。

 カジュアルな紺色のシャツとベージュのズボンに着替えてる時も、アパートの玄関を出てここに来るまでも、ずっと同じことを堂々巡りのように章は思っていた。

 家で仕事がしたい。一言で言えばその言葉にまとめられる言葉を長々と何回も繰り返し考え続けていた。

 茶色のテーブルに置いた今日も鳴ることがないだろう営業用のスマホを章はじっと見た。どうせ今日もダラダラと古いマニュアル書を適当にパソコン上で編集し、終わらせようと章は思い至る。

 監視された環境下でなければ人はやっぱり手を抜くものさ、と腑抜けた目を前方に向けた。少し先の窓からは曇り空がうっすらと見える。窓際の席はがら空きと言えた。四席あるうちの一席しか人は座っていない。

 座っている人はよくこの場所で見る人だなと章は思い出す。

 暗めの茶髪でスラーっとした体系の男性。イメージカラーは茶色と思わせる程、毎回茶色系で身を包んでいる人だった。恐らく歳は俺と同じ二十代後半だろう。後ろ姿だけしか見えないが、今日も茶色で身を包んでいるなと背中を見つめる。

 明るくない茶色の髪、薄茶色のカーディガン、黒のズボン、茶色の革靴、椅子に置かれた濃い茶色のビジネスカバンとキャラメルを思わせるコート。

 ほぼ茶色一色の男性は、カタカタと熱心に素早くパソコンに向かって文字を打ち続けていた。見ている数分間ずっと打ち続けていた。

 いくらなんでもそんなに文字を沢山打つことがあるのかと章は疑い始めるも、人のことより自分のことと思い直し、章もパソコンへと向かった。

 けれども集中力はたいして続かなかった。ダラダラ、ダラダラと何回も同じ場所をいったりきたり。たいして章の作業は進まず、気付けば午前は終わりお昼を迎えていた。

 持参したコンビニのサンドイッチを食べ終え、午後からはしっかりやるぞと意気込みを新たに入れ直したが、三十分も経たずに章の集中力は霧散した。

 そして無意識のうちに自分のスマホを触り出し、適当にネットニュースを見始める。良くない良くないと二十分程触ってから気付き、スマホをしまい込みまたパソコンへ向かうも集中力はやはり続かなかった。

 ビール飲みたいなー、と章はやる気が遥か道の果てに行ってしまったのに気付きながら、窓の外へ視線を向けた。

 窓際の茶色い系の男性がパソコンを閉じ、読書をしているのが視界に飛び込んでくる。

 あんたも暇そうですな、仕事を堂々とサボるのはいかんのではないですか、と自分のことは棚に上げつつ、章は妙な親近感を男性に覚え、マスク下で薄笑いを浮かべる。

 他の人も見ようと周りを見渡すも、いつの間にか人はいなくなっていた。見る限り、オフィスには章と窓際に座る男性だけの二人きりだった。

 珍しいなと章は目を見張る。いつもはもう二人程暇そうな中年男性かおばちゃんがいるのに……と思うも深くは考えず、帰ったか電話でもしに行ったのかと適当に章は決めつける。


 ――暇だったから。


 そう自分に言い訳をしながら章は椅子に座ったまま窓際の男性へと近付いた。

 キャスター付きの椅子をゴロゴロと転がし、床を足でパタパタと蹴って男性に章は向かっていく。


「お仕事は順調ですか?」


 突然に声をかけられた男性はパッと本から目を離し章へと振り返った。

 前髪を後ろへと軽く流した男性の髪を一瞥し、章はマスク越しに相手へ笑いかけた。


「お互い、暇ですね」


 このオフィス内でお喋りするのは禁止されていない。けれどご時世柄もあり、見知らぬ人と仕事の話をするのも情報セキュリティ上芳しくなく、暗黙の了解で誰もが話さず、黙々と仕事をしてきた。


「あの……何か?」

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