第2話 牡牛座『カフェ・オ・レと朝焼けのキス』

「ゆっくりでいい。君と一緒にいられるなら。」


1. 朝の喫茶店

 朝の喫茶店には、特別な空気が流れている。


 ガラス窓越しに差し込む柔らかな朝日。まだ半分眠っている街並み。カップを置く小さな音や、新聞をめくる音。コーヒーの香りがゆっくりと店内に満ちていく。


 「おはよう、律。」


 俺はカウンター席に座りながら、その声に顔を上げた。


 そこには、毎朝この店で会う彼女――詩(うた)がいた。


 「……おはよう。」


 俺はコーヒーを一口すすりながら、軽く手を挙げた。詩は俺の隣に座ると、ふぅっと静かに息をついた。


 「今日も寒いね。」


 「ああ。でも、少しずつ春に近づいてる。」


 カウンターの奥で、マスターが静かにコーヒーを淹れる音がする。


 詩はメニューも見ずに、「カフェ・オ・レをください」と言った。


 それが、彼女のいつもの朝のルーティンだった。


2. 変わらない時間

 詩と初めて会ったのは、一年前のこの喫茶店だった。


 早朝、まだ客の少ない店で、俺はひとりコーヒーを飲んでいた。


 その時、ふいに目の前の席に彼女が座った。


 「ここ、いい?」


 「……ああ。」


 その日から、詩と俺は毎朝同じ喫茶店で会うようになった。


 特別な約束をしたわけではない。ただ、お互いに「ここに来れば会える」とわかっていた。


 会話は多くない。


 でも、詩がカフェ・オ・レを飲む姿を見ていると、なぜか心が落ち着いた。


3. 変わる時間

 春が近づくにつれ、喫茶店の窓から見える景色も変わっていった。


 冬枯れしていた街路樹に、小さな新芽がつく。


 冷たかった風が、少しずつやわらかくなる。


 詩の髪も、マフラーに隠れていた首元も、ほんの少しだけ春めいて見えた。


 「ねぇ、律。」


 彼女がふいに言った。


 「私、もうすぐ引っ越すんだ。」


 「……え?」


 心臓が一瞬、重たくなる。


 「仕事の関係で、ちょっと遠くに行かなきゃいけなくなったの。」


 詩はカップの中を覗き込むようにしながら、小さく笑った。


 「だから、ここで会うのも、あと少し。」


4. 朝焼けのキス

 その日から、俺は今まで以上に、朝がくるのが惜しくなった。


 何気ない会話も、カフェ・オ・レの香りも、全部が消えてしまうような気がして。


 そして、迎えた最後の朝。


 詩は、いつもと同じようにカフェ・オ・レを飲んでいた。


 ただ違ったのは、カップを置いた後、彼女が少しだけ俺に体を寄せたこと。


 「律。」


 詩の声は、ほんの少し震えていた。


 「ありがとう。毎朝、一緒にいてくれて。」


 朝日が、彼女の横顔をやわらかく照らす。


 俺は、そんな彼女の手をそっと握った。


 「詩。」


 彼女がゆっくりと顔を上げる。


 そして、俺はそっと、彼女に唇を重ねた。


 それは、静かで、あたたかくて、カフェ・オ・レのようにやさしいキスだった。


5. それでも続く時間

 詩は、旅立った。


 でも、俺は今も変わらず、毎朝この喫茶店に通っている。


 カウンターで、コーヒーを飲みながら、いつもの席を見つめる。


 彼女が座っていた場所。


 そこには、今はもう誰もいない。


 でも、俺は知っている。


 カフェ・オ・レの香りと、朝焼けの光の中に、確かに彼女がいたことを。


 そしてきっと、どこかで同じ朝を迎えていることを。


【終わり】

――"君がいなくなっても、ここで待ち続けるよ。"

ゆっくりと流れる時間の中で、愛が続いていくことを信じて。

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