第2話 暗がりからの逃走

——撃った。

間違いなく引き金を引いた。

あの政治家の顔は割れて、中から人間じゃない“何か”が出てきた。

群衆が悲鳴を上げ、逃げ惑い、警備が騒ぎ、あの場は完全な地獄だった。


……なのに、だ。


仁は、部屋の隅にあるテレビのリモコンを手に取った。

汗ばんだ指先でスイッチを押す。


パチッ。


画面が点く。NHKのニュース番組が映る。


「……都心では桜が見頃を迎えており、例年より少し早い開花となりました——」


淡々とした女性アナウンサーの声。

画面には、笑顔で花を見上げる人々。

ピクニック。観光客。子供の笑い声。


……違う。

こんなはずはない。

あんな事件が起きたのに、今この瞬間、それが一文字も報じられていない。


チャンネルを変える。

どの局も同じだった。

バラエティ。ワイドショー。料理番組。通販。


仁の手が、ゆっくりと止まる。


「……おい、ウソだろ……」


SNSも開いてみる。

“日向陣太郎”の名前を検索する。

結果は、“今夜の演説”に関する予告記事だけで止まっていた。


あの場にいたはずの数百人が、何も発信していない。


——全員が、殺された?

——あるいは、あの場にいた“全員”が、宇宙人だったのか?


仁の背中に、冷たいものが走る。

足元から、氷水を流し込まれるような感覚。


あれは暴かれたんじゃない。

何も、起こらなかったことにされたんだ。


仁は、テレビを見つめながら、震える声で呟いた。


「……俺だけ、知ってる……?」


テレビの中の誰もが、予定通りの脚本通りに、幸福な時間を演じている。

それが妙に、気持ち悪かった。

静かだ。音はあるのに、静かすぎる。

仁は立ち上がり、リモコンを手に取った。

赤いボタンに親指を置く。


——パチッ。


テレビが消えた。

映像も音も消えた瞬間、部屋が本当に“無音”になった。

冷蔵庫のモーター音すら、異様に大きく聞こえる。


「……こえーよ、なんだこれ……」

仁はポツリと呟いた。

“日常”が、こんなにも怖いと感じたのは初めてだった。

——この世界の“皮”は、あまりにも綺麗すぎる。

その裏で、何かが蠢いている。

そして、自分だけがそれを見てしまった。


────────────────


何時間過ぎただろうか。仁は、床に座り込んだまま、ぼんやりと天井を見つめていた。


あれから何度もチャンネルを変え、SNSを更新し、ニュースアプリを開き直した。

だが、日向陣太郎の名はどこにもなかった。

銃声も、混乱も、ましてや“あの正体”も、何一つ残っていない。


まるで、最初から何も起きなかったように。


「……ふざけんなよ……」


そう呟いたときだった。


——ジッ……あ……ザ……ッ……


部屋の隅、埃をかぶった収納ケースから、小さなノイズ音が響いた。


仁は反射的に顔を上げる。


音の発信源は、「ヒーロー部 装備庫」と書かれたプラスチック箱。

おもちゃ、ガラクタ、妄想兵器の詰め合わせ。

その中に、確かに“それ”があった。


赤と黒の、安っぽいトランシーバー。


中学生の頃に買って、部活の「秘密作戦ごっこ」で使っていたやつだ。


電源は入れていない。

電池ももう、とっくに切れているはずだった。


次の瞬間、通信機のスピーカーから、ノイズ混じりの声が流れた。


「……仁? 聞こえてたら応答して。あ、あー……コホン……コード:ホワイトカラス。確認用フレーズ、“星は誰のもの?”」


仁は目を見開いた。


「……な、なんで……」


そのフレーズ。

それは、スーパーヒーロー部だけが知っている合言葉だった。

ミズキがふざけて決めた暗号。誰もまともに覚えていなかった……はずだ。


仁は咄嗟に口を動かした。


「……答えは、“見つけたやつのもの”……!」


一拍の沈黙。そして——


「応答確認。よかった、まだ生きてた。

……久しぶり、仁。ミズキだよ。覚えてる?」


その声は、古びたプラスチック越しに、あまりにも鮮明だった。


仁は呆然としたまま、震える唇を動かした。


「……ミズキ……?」


「会見見てたよ。撃ったでしょ、アイツ。

まさかあんたが最初の一発目になるとは思わなかったけど……ごめん、時間がない。とにかく、あの政治家は“ニセモノ”だった。それから、アンタ。アンタの居場所、追われてる。動いて」


トランシーバーのランプがチカチカと点滅する。

けれど、仁の胸の奥は、いきなり火がついたみたいに熱くなっていた。

「ちょっ……待てよ!お前、今どこに——」


「あとで話す。今から“迎え”を向かわせる。動いて、仁。あたし達の戦い、始まったばっかだよ。

……ヒーロー部、再始動」


次の瞬間、アパートの外から、エンジン音が聞こえた。

窓の外を覗くと、黒塗りの車が一台、エンジンをかけたまま停まっている。


仁の心臓が跳ねる。

逃げるか、乗るか。迷ってる暇はない。


でも、仁の手は自然にマスケット銃と、いくつかの妄想兵器をつかんでいた。

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