第1話 青春の予感
船旅は、想像以上に長かった。朝の薄明かりに包まれながら乗船して、気がつけば、もう西の空が橙色に染まりはじめている。
電波も届かず、SNSも動画も開けないこの孤立した空間で、俺たちはひたすら揺られ続けていた。
「……おい、陽翔」
隣で風に吹かれていた颯馬が、急に声を潜めた。
「……あれ、見えへんか?」
ゆっくりと目を細めて、視線の先を追う。
波間の向こう、かすかに浮かぶ――影。
最初はただの雲かと思った。でも違う。あれは、確かに“陸地”だった。
船の進行と共に、その輪郭が徐々に鮮明になっていく。
「……あれが、常世島ですか」
慧の低い声が、背後から届く。
彼はいつの間にかスマホをしまって、俺たちの隣に立っていた。
やがて、視界いっぱいに島の全景が広がっていく。
真っ先に目に飛び込んでくるのは、山の中腹に咲き乱れる桜並木。
そのすぐ下には、青々とした草原に映えるログハウスのような建物。反対側には白い砂浜が広がり、波が打ち寄せるリゾート風のビーチが見える。
「……めっちゃ綺麗やな……」
思わず颯馬が呟く。
その言葉が、妙にしっくりきた。
風の匂いが、どこか変わった。
潮の香りに混じって、甘い花のような香りがほんのりと鼻をくすぐる。
「空気まで違う気がするでござるな……」
碧がスマホのレンズ越しに島を覗きながら、しみじみと呟いた。
そのときだった。
周囲が、ざわざわと騒がしくなっていることに気づいた。
「ねぇねぇ、あれが常世島!?」
「ほんとに四季エリア全部あるのかな?」
「わたし春エリア行くー!」
「夏のビーチエリアで絶対写真撮ろうね!」
「やっば、テンション上がってきた!」
「映え確定じゃんコレ!」
――周囲を見渡すと、俺たちと同じく観光で来たらしい若者たちや、カップル、家族連れ……
デッキに出た人たちが、一斉に島を見つめていた。
この船は“常世島直通・完全予約制”の特別便。
リゾート開発に合わせて作られた大型フェリーで、
その便は満席が当たり前、予約すら抽選という人気っぷりだった。
そのせいか、周囲のテンションは異様に高かった。
誰もが笑って、騒いで、ワクワクしてる。
けれど――俺だけは、どこか冷めてその光景を見ていた。
さっきまでの船酔いも、船の揺れも、不思議と感じなくなっていた。
それだけ、この島の景色が“異質”だった。
人工島。
人の手で作られ、四季を再現し、完璧な観光地としてデザインされた理想郷。
だというのに――目の前の常世島は、“あまりにも自然”だった。
作り物に見えないほど自然で、自然に見えないほど整っている。
「あと30分で到着予定だそうです」
慧がスマホの画面をちらりと見せる。
GPSも復活し、案内アプリが“常世島港”の位置を示していた。
「……30分か」
たったそれだけなのに、妙に長く感じた。
島は確かに近づいているのに、まだまだ手が届かない。
目の前にあるのに、まるで夢を見てるようで――
「これ……本当に現実か?」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
「なに言うてんねん。これが現実やって」
颯馬が笑って、俺の肩を軽く叩いた。
「もしかしてオレら、今――やっと青春が始まるんちゃう?」
その言葉が、妙に胸に残った。
ゆっくりと、常世島の港が近づいてくる。
船のアナウンスが、到着の準備を告げる。
そして、ついに――
俺たちの足が、“あの島”へと、降り立った。
タラップを降りた瞬間、思わず足を止める。
地面が、やけに柔らかい。
コンクリートのはずなのに、どこか温もりがあるような、不思議な感触だった。
それよりも先に感じたのは、空気の違いだった。
ただの潮風じゃない。微かに花の香りと、草の匂いと、土のにおいが混じっている。
機械で作った香りではなく、“生きた自然”の匂いだ。
「おおおっ……!すっげぇ、地面が地面しとる!!」
颯馬が意味不明なことを言いながら、ぺたぺたと足踏みしている。
「お前の語彙力は心配になるけど、気持ちは分かる」
俺も思わず頷いてしまった。
「拙者、この香り……“癒し”と断定するでござる……」
碧が深呼吸しながら目を閉じて、謎のポーズを決めていた。
ただの観光地の空気に感動しているオタク、シュールすぎる。
そのポーズのまま天に召されたとしても、俺は手を振って気持ちよく見送る自信がある。
「気圧、湿度、気温……計算通りですね。ここは人間にとって“最も快適な環境”を人工的に作り出した場所らしいです」
慧がスマホを見ながら、無感情でそう言った。
……ほんとにこいつ、時々ロボなんじゃないかって思う。
最新勢のAIと話しているのか慧と話しているのか時々分からなくなる。
そんなやり取りの中――
「…………」
颯馬が、ふと動きを止めた。
「……女の子が……こんなにも……ぎょうさん……!!」
震える声と共に、港の広場に集まっていた観光客の女性グループを見つめる。
リゾート地ということもあり、服装は軽やかでカラフル。
みんな笑っていて、楽しそうで、可愛い。
「女子ですね」
慧も無表情のままメガネをクイッと上げる。
そのメガネの奥の眼光はスマホの画面ではなく、完全に人間観察モードに切り替わっていた。
「女子でござるぅぅぅぅぅ!!」
碧は既に変なテンションでスマホを構えつつ、目をキラキラさせている。
たぶん、心の中でアイドルのライブ映像でも流れてる。
「お前ら……」
思わず呆れた声が漏れた。
まったく……これが上陸して間もない状況なんて、もう収拾つかないだろ。
――でもまあ、こういうのも悪くない。
周囲を見渡すと、他の観光客たちも思い思いに感動していた。
カメラを構える者、はしゃぎながら走る子どもたち、港で記念撮影をするカップル――
どこを見ても、笑顔ばかりだった。
「……まるでテーマパークみたいだな」
俺が呟くと、慧がちらりとこちらを見た。
「違います。ここは“テーマパーク以上”です。
目的地そのものが“体験型の非日常”で構成されている。
要するに、“現実”を模した“非現実”だと言えるでしょう」
「……お前、メガネクイッとしすぎて煙出てるぞ」
確かに慧の言葉は的を射ていた。
作られた島、設計された四季、完璧な気候。
けれど、この“常世島”は、そんな人工感をまるで感じさせないほど自然だった。
「よし、まずは旅館へ向かいましょう。チェックインしないといけません」
慧がメガネから煙を出しながら先導するように歩き出す。
「よっしゃー!ほんならオレはおみやげ屋チェックするで!あとビーチも見に行こな、陽翔!」
「いや、まだ旅館……」
「うおっ、あれ超うまそうな串焼き……って、うわっ、こっちにはソフトクリーム!神かっ!?」
颯馬の視線はあっちこっちに飛びまくり、すでに旅館までたどり着ける気がしない。
「拙者は情報収集のため、さっそく撮影モードに入るでござる!」
碧は早くもスマホを回し始め、「はい、今は中央エリアの港前広場!いやー観光客だらけでござるな!」と実況し始めていた。
……騒がしい。
けど、不思議とそれが心地いい。
歩き出した俺の足は、自然と弾んでいた。
まるで、どこかで止まっていた時間が、ゆっくりと動き出すような感覚。
――そして、そのときだった。
「……あれ、君たちって観光の人?」
振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。
金色の髪に、白いパーカーとデニムのショートパンツ。
服装はラフだけど、妙に垢抜けた雰囲気を纏っている。
そして、何よりも目を引いたのは――
彼女の髪に揺れていた、小さな水色の花だった。
淡く、儚げな色合いのその花は、どこか光を宿しているようにも見える。
風が吹くたびにふわりと揺れて、ほんの少し、光がきらめいた気がした。
「え?あ、うん。今日からしばらく泊まる予定で――」
「あっ、じゃあ私が案内してあげよっか!地元民だから、ちょっとだけ詳しいよ!」
そう言って手を差し出してきた少女に、俺は思わず聞いた。
「……君、名前は?」
「私?篝 美咲(かがり みさき)って言います!」
――常世島での出会い。
それは、俺たちの“遅咲きの青春”に、最初の火を灯す瞬間だった。
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