第17話 コウノスケ④
女の子が優しく次郎をなでている。
なんか怒涛のように色々とあったが、落ち着いて良かった。しかし、銃なんて初めて見たな。やっぱり目の前にあると落ち着かない。次郎も見たらびっくりするのではないか? よく話には犬が拳銃を持った犯人の腕に噛み付くような、そんなドラマとかもあるような気がする。今次郎が起きて犬の習性としてそんなドラマみたいに犯人に立ち向かったら面倒な事になるだろう。なんとなく場の空気が解決に向かっているので銃をしまうように男に言おうか、と思った瞬間だった。
「あ、起きた」女の子がつぶやいた。
次郎がむくっと首を起こすと、女の子手を舐めた。良かった。無事だった。安堵の気持ちが押し寄せる。もしこのまま目を覚まさずに亡くなってしまったらどうしようと内心私は怯えていた。良かった。本当に。
すると、次郎はまわりを見回して、鼻をひくつかせた。
匂い。何か気になるのか。瞬間、さっきの懸念が頭をよぎる。火薬、火薬の匂いに気が付いたのかもしれない。次郎はむっくり起き上がると、意外な俊敏さでチンピラ男に飛びかかった。止める間もない、あっという間の出来事だった。頼む、次郎を撃たないでくれと思った。
が、違った。次郎は噛みついたのではなく盛大に尻尾を振ってチンピラ男に抱きつこうとした。
「あれ、お、お前、次郎か?」
チンピラ男が驚いたように言う。私は唖然とする。どういう事だ。なぜこの男が次郎の名前を知っているのだ。
「ひっさしぶりだなぁ。元気にしてたかぁ」と頬をワシワシと乱暴になでて、「やめろ、今日はカップ麺ねぇよ」などと言っている。確実に旧知の仲であるようだ。
「なぜ、君がその犬の名前を知っている?」私はやっとの事で声を絞り出す。
「あ、そうすると、爺さんがあの婆さんの旦那って事か!いやー、それは悪い事したな。申し訳ない。俺、婆さんにはほんとお世話になってばっかしだからさぁ。最近会えてなかったんだけど家帰ったらよろしく伝えて欲しいな」と嬉しそうにしている。
「婆さん・・・妻と、タエと知り合いなのか、どこで、どうやって、なんで知り合いなのだ?」疑問が次から湧いてきて矢継ぎ早に聞いて、ふとこの若者に言わなければいけないセリフを思い出してまた涙が出そうになった。
「なんでって・・・公園でたまに会う仲で、俺の店の裏手の公園で休憩中いたらよくこの犬に散歩に来ていたから話すようになって。あれ爺さんどうしたんだ。なんで泣いてんだ。婆さんどうしたんだ」
私は、この若者にタエがしばらく前に亡くなったことを告げた。夫の私が少し驚くくらい、妻の死を知ると目の前のチンピラ風の若者は両目にたくさんの涙を浮かべて残念がった。聞くに、彼は妻の名前もついぞ知らなかったが、妻にとても「世話になった」と言っていた。
俺、バカだからさ。ほんと、バカだからさ。タダシ、なんて冗談にもならない名前で、本当にロクでも無い奴だから。こんな水商売の店やっててもケツもちのヤクザの兄貴に怒られたり殴られたりしてばっかだ。バカだから真っ当な道じゃなくても結局中途半端もん。ヤクザにもなれねぇで、使いっ走りみたいな中途半端な事している。でも、その公園の婆さんはそんな俺の話を嫌な顔しないで聞いてくれてたんだ。普通こんなチンピラの話なんて聞きたくもないよな。だから俺本当にありがたかった。どうにもならなくても誰かに気持ち聞いてもらったらちょっと楽になったんだ。
その時いっつもこの次郎も婆さんと一緒だったから。次郎にはよく余った昼飯とかあげてたから、だからきっと覚えてたんだろうな。犬でも覚えてもらえると嬉しいもんだよな。ありがてぇ。俺もたくさん婆さんに話聞いてもらったし、俺も婆さんの話聞いたり、いろいろ人生のやり方教えてもらったんだ。今でも婆さんに教えてもらった「もがいていれば、いつか正解になる。」って言葉忘れずに頑張ってんだ。俺、ほんとの婆ちゃんって会った事なくて、親があんまし婆ちゃんと仲良くなかったみたいで。だからちょっと、ほんとのお婆ちゃんみたいな気がして、その言葉大事にしよって思ってきたんだ。まぁ、こんなことに今日なっちゃったけど。
つっかえながらも想いを込めて話すこの若者を見て、私は言いようのない感情を抱いた。知りたいようで知りたくない。畏れ、と言えるのかもしれない。私はまた妻の知らない一面を知ろうとしているのではないだろうか。あの日からずっと答えの出ない暗い迷路がまた深遠を覗かさないだろうか。
もう、見たくない。私の知っている妻であって欲しい。どうか、私を愛していると安心させて欲しい。一体なぜ、このような気持ちにならないといけないのだろうか。
でもそれは私が仕事一辺倒な人生を生きた事の裏返しだった。私は私といない時の妻をどこまで知ろうとしたのだろうか。私は私が向き合わなかった期間の妻の時間と今、向き合う事になったのだ。ここで向き合わなければもう一生、それこと文字通り死ぬまで私は知ることはないのだ。
本当に「畏れる」べきがどちらかは明白だった。
「君、名前は?」私は改めて掠れる声で彼の名前を尋ねる。タダシだよ。木村正。
「正くん、妻が話した事を教えて欲しい。君は知らないかな、妻がどんな人だったか。私は最近、妻がどんな人だったか分からなくなってしまったんだ。」
「婆さんの事、俺そんなに知らないけど。でも、いくつか、多分、バカで他人の俺だから教えてくれた事があるかも。」そして、爺さんが気を悪くしなければだけど。とバツが悪そうにした。
私はこの心優しい強盗の心配そうな顔を見てなんで妻が彼と親しく話をしていたのか分かった気がした。
笑みを浮かべて「大丈夫だ」と心から告げた。
曰く、それはこのような内容だったらしい。
妻はずっと長い間深い後悔を背負って生きていた。それは許されない永い懺悔のような時間だったらしい。妻が背負った罪は不安定な身重の女から夫を、生まれてくる子供から父親を奪おうと思ってしまった事。例え、それが未遂だったとしても自分に犯した罪に違いはないと感じた事。その罰は片時も忘れずに後悔をし続ける事。そして、たまたまだったかも知れないが、我々夫婦に「子供が出来ない事」だった。
子宝に恵まれない事が半ば偶然でも、罪を犯した自分への罰として、我々には子供が出来ないのだろうと妻は思い至った。思えば一度も妻は子供が出来ない事を私に嘆いたり、なんなら私を含めて不妊の為に病院にかかる、という事がなかった。それは妻なりの贖罪だった。妻が背負った十字架は妻が子供を欲しいと望む事も許せなくさせていた。
「だけど」と正は続けた。
「一度、子供を授かった事があった」と。
心臓が揺さぶられた。私はこの年齢になってここまで大きな衝撃を受ける事があるとは思わなかった。
「出来た子供の事を主人に言えなかったのが辛かった。なぜか分からないけど私はずっとそれが罰だと思っていた。私に子供ができない事、むしろ、子供を望んではいけない事。私が不倫していた奥さんはその時妊娠していたから。私は決して許されない事をしようとしていたの。私の夫は子供が欲しいとは言わなかったけど、でもきっと子供が私たちにできたって知ったら期待するから。私に子供ができにくい体質なのは天罰だと思っていた。だからきっと出来ても流れてしまうから……だから例え子供ができてもすぐにそのことを言えなかった。私の罪に主人を巻き込んではいけないから。ただ自然に、自然に子供がいない事にしないと主人に申し訳がないから。」
そして本当に、そう時を置かずに身籠った子は妻が予感した通り、流産してしまったのだと言う。
いつの頃の話なのか私には判断がつかなかったが、ただ結婚してしばらくは私も子供はいつか出来るだろうくらいに思っていた。そのうち仕事にかまけて徐々に子供ができない事が私の日常になっていった。
その時妻がどう思っていたかを考えた事はなかった。子供が出来ないものはしかたない、としか私は思っていなかった。
私が深く衝撃を受けていると、正はそこで大切な、とても大切な事を妻から教えてもらった、と続けた。
「私はもがけなかった。私の後悔を正解にする為に、やってしまった過ちと折り合いをつけるためだけに、これで良かったんだってそう思う為にずっと生きてきた。だから私はもがかなかった。でもそれはまた別の後悔を生んだだけかもしれないの。だから、そんな後悔をあなたはしちゃダメよ。」
そして「間違えるのはあなたがなんとかしようと、もがいているからよ。もがいていればいつか必ず正解になるの」と教えてくれたという。
正が「でも俺は正しいが解らない」というと優しい顔をして妻は言葉を続けたと言う。
「正解に辿り着く『正しい』道なんてないのよ。やるだけやって、もがいてもがいて、もうこれ以上ないなって思って納得して振り返った時、自分で「正しかった」って決めてあげるものなのよ」
だから正解はいつもその時には分からないもの。後で分かるものなの。きっとまだあなたは振り返るタイミングじゃないだけなのよ。
私はじんわりと妻の心に触れる。妻は最後を後悔なく振り返られただろうか。自分で自分に正しさを認められただろうか。そしてもし、私もその正しさの一つになっていたら、こんなに嬉しいことはない、と思った。
初めて、私は妻が私の事をどう思っていたかより、妻に「私がどう思われていたか」を切に願ったように思う。出来れば、私と過ごした36年が彼女の人生を肯定してあげていて欲しい、と強く願った。
そして、妻は最後に思いもよらない贈り物を私に用意してくれていた。正は言葉を続けた。
「だから正解はいつもその時には分からないものなの。後で分かるものなの。振り返ってみてやっと分かるの。だから私は自信持って言えるわ。こんなに長く一緒にいた相手だから。今振り返って分かるの、私は主人と一緒にいて良かったって。今風に言うと愛っていうのかしらね」
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