第12話 コウノスケ③

 自分でも不思議だと思うけど、亡くなってからより妻の事を考える。

 一緒にいた時よりもはるかに多くの時に、多くのタイミングで。36年一緒だっだ。文字通りの半生を共にしているし、私はあまり交友関係が広くないというか、会社と家庭以外に自分の世界があった訳でもないし、若い頃の学生時代の思い出なんかを除くと大体ほとんど全ての記憶に妻がいる。 浮気な性がないというか、モテないともいうのかもしれないが、特に女性関係もなければその気になれるような事もあった試しがないから、尚更だ。


 3年前に妻の病が見つかる前までは定年後も嘱託として会社に残った事もあり、あまり人生を振り返るような気持ちにもならなかった。私たちは子供がいなかったら人生の節目や時の積み重ねを感じるようなライフイベントが少なかった事もあるかもしれない。

 妻を介護しながら、私たちは年輪のない樹木みたいなこれまでの二人の人生を振り返った。思いもよらぬ雪の多さで苦労した京都への旅行や、叔父たちが喧嘩をしてしまった親族の会、妻の希望で行ったヨーロッパ旅行、そしてその旅で私が赤恥をかいた病院での出来事展……思い出せる事はいくらでもあったし、思い出す度にまた二人で笑い合えた。

 だけど不思議とそれがいつだったかは正確に思い出せなかったし、二人ともその時間軸についてああでもない、こうでもないと話し続けた。私にとってその議論はとても幸福な時間だったように思えた。

 私は特にその時代考証において曖昧模糊な記憶しか持ち合わせて無かったが、妻はここ10年ほどについては犬の次郎を持ちだしては名探偵のように言い当てた。私には次郎が3歳だが5歳だがはさした記憶の栞にはならなかったし、事実この犬の年齢ほど記憶の中で曖昧なものも無かったが、妻にとっては大きな意味を持っていたようだった。私は単純に驚いたし、なぜか少し犬の次郎に嫉妬したのを覚えている。



 妻が亡くなってしまうと、一人の時間が増えた事もあり二人で昔話をしていたころよりも多くの時間人生に思いをはせ、妻との過去との想い出を振り返る事が多くなった。今度は妻という名探偵はいないので多くの出来事が曖昧なままだったが、最近ではそれも少し慣れてきた。

 目の前を歩く犬の次郎が少しでも昔話に付き合ってくれればいいが、この老犬は二日に一度の散歩以外はねっとりと家の床でまどろんでいるばかりだった。まるで、彼自身の余生に思いを馳せているようにも見えて皮肉な思いになる。



 だから先日、会社の同期OBの社友会が開かれると聞いて、柄にもなくとても気分が高揚した。久しぶりにあった昔の仲間たちとは会話は心から楽しかった。同期入社年次の集まりとあって入社当時の懐かしい話題も多く出た。ただ、昔は多かった同期の人数もめっきり減っていた。坂本のように死別や離職して疎遠になってしまった者も多く、少し寂しく感じた。

 会も深まった頃に、手洗いで席に立ったのをきっかけにある女性同期と久しぶりに話をした。彼女は妻とも少しの間同じ部署にいた事があり、いっとき妻の会話でもよく彼女は出てきた。妻にとっては社内で可愛がってもらった女性の先輩という感じだった。私はこの女性同期の名前が分からなかったが、彼女の方は私の名前を知っていた。私たちは手洗いの戻るタイミングが一緒で「田中くん」と呼び止められた。

「久しぶりね。結婚式以来かしらお酒の席は。」彼女は私たちの結婚式にも妻側の招待客として来てくれていた。

私も彼女に「久しぶりだね」と返しながら名前はなんだっかな、と思案していると「幸子よ。川口幸子。タエちゃんとは2課の時に一緒だったのよ。あなたたちが結婚した時ぐらいかな。」とからかうように澱みなく言った。彼女は私の世代の女性社員として珍しく定年まで働いて退職していた。妻が昔彼女を指してキャリアウーマンだと言っていたのを思い出した。きっとあんな先輩が新しい時代を作っていくのね、と。

「田中くんは元気?タエちゃんは?」

私は妻が2年前に亡くなった事を告げると彼女は言葉を失ったが、しばらくすると遠い目をして「この歳になるとそういうの、普通よね」と手元の焼酎グラスの氷をくるりと撫でた。

「私は結局結婚しなくて、家族って持たなかったから。そういうなかったけど。辛いよね」と私の目を覗き込んだ。

「こんなに辛いと思わなかったよ。なんで生きている時にもっと色々話さなかったのかなと。子供もいなかったし僕は仕事ばかりだったから、孤独にさせたのかなと後悔が多いよ」自分でも意外なほど素直に心から言葉がでた。 

「タエちゃんは変わった子だったから、一人でも楽しくできそうだけどね。」と、彼女は妻を思い出したのか少し微笑んだ。

 恐らく私の知らない妻との思い出や妻の姿が彼女の脳裏には浮かんでいるのだろう。最近分かってきたが、それはきっと私との間では決して見る事のできなかった妻の一面なのだと思う。

 彼女のはその後「そっかぁ、だんだん皆んな居なくなっていくね。坂本くんなんかも早かったもんね」と呟いた後、急に私を見て「ごめん……無神経だったね。タエちゃんとの事があったのに」とあわてて謝った。

 私は彼女が何に対して謝っているか分からなかった。我々が仲良かったから、そこに妻の死の事と合わせて落ち込んでいるであろう私を慮ったのだろうか、と思ったがやや合点がいかなかった。

 おそらく私は自分で思ったより不思議な顔をしていたのだろう。一瞬の空白の間で、我々はお互いを見つめ合った。目の前の彼女は徐々に青ざめるような表情をした。

「え……もしかして、タエちゃんから聞いてなかった?やだ。私、どうしよう。ごめんなさい」

「待ってくれ、なんの話をしているんだ。タエがどうしたんだ」

ごめんなさい、今の話は忘れて。彼女は頑なに謝り通そうとしたが、しばらく応酬をしたのち堪忍したように話した事は次のような事だった。


 私が異動を機に妻のタエに告白をして交際を迫った時、実はタエは坂本と不倫関係にあった。関係は古く私たち三人がよく飲み始めてしばらく経ってから、私は気がつかなかったが二人はそのような関係になっていたらしい。坂本は学生時代から付き合って入社すぐ結婚した妻がいたが、タエにはいずれは別れるつもりがある事をほのめかしていたらしい。だが、二人の関係は坂本の妻が妊娠した事tで一変する。坂本の妻も薄っすらと気がついていて、それでも坂本とタエは別れる別れないという修羅場をしていたらしいが、そんな時に私が妻に告白をした。私の告白でタエは「憑き物が落ちた」ようにぱったり坂本との関係を断ち、私との交際を開始した。という話だった。


 正直その日、同期OBの社友会でその後どのような会話をして帰ったかは覚えていない。思わぬ暴露をしてしまった川口幸子は可哀想にひたすらに私に許しを請いたが、私は彼女には少しも怒りが湧かなかった。この年になれば40年近く前のことを誰がどこまで知っているかなんか正確に把握できていることの方が稀だし、なんなら彼女の記憶力の正確さは尊敬に値すると思った。私はとてもじゃないがその頃の周りの色恋沙汰なんざ一つも記憶してない。そして、私は妻に対しても怒りは湧かなかった。妻が私にそのような事を私に言えなかったのは坂本を含めた我々の関係を考えると理解できたし、想像できないくらい「言い難い事」でもあるし、むしろそんな渦中にアホみたいな告白を私にされた妻の気持ちも、私には想像できなかった。


 ただ、私は猛烈に怒っていた。自分に。私だけ、私だけ何も呑気に知らずにいた。あんなに二人の側にいたと思ったのに。坂本は少なくとも無二の友だとその時思っていたのに。気がつけもしなければ、勘付けもしなかった。これを鈍感の極みと言わずなんと言おう。まさに愚鈍である。そして坂本と私が徐々に疎遠になった事もふと腹落ちした。私は単に自分が忙しくなったり、坂本が父親になったりしたからだと思っていたが違った。誰も修羅場になった不倫相手と改めて友人関係を結べる人間はいないだろう。その夫である私に対して距離が出るのも当然だ。私はなんて自分しか見えない人間だったのだろう。怒りの頭の中でぐるぐると記憶が錯綜する。坂本の事や彼の実家の長野の酒蔵、彼の息子の姿。私たちが生前ついぞ彼の実家に遊びにいかなかっ事、坂本と最後に交わした「タエちゃんと遊びにおいでよ。美味い酒呑ませてあげるよ。また3人で飲もうぜ。」という約束と優しい笑顔。一体彼はどんな気持ちでいたのだろう。あの時、坂本と妻のタエの過去を私は知らない事を坂本は「知って」いたのだろうか。坂本の実家で彼の息子と対面した妻はどんな気持ちだったのだろうか。家に帰ってからも怒りは収まらず、私は一人風呂の中で涙を流した。

 翌朝、私は目を覚ますととてつもない喪失感に襲われた。妻を無くした時以上の、人生を通して最も激しい喪失感。それはある疑問を私に抱かせた。

 妻は私を愛していたのだろうか、と。


 この疑問を抱いてからは、私は答えのない問題を解き続けている。以前より増して、より多くの時間、妻を思い出す。この疑問を持つ前はただの楽しい記憶の反芻だった。最近は暗い迷路を辿る堂々巡りの思案である。少しでも愛情を感じる記憶を思い出しては安心し、私に冷淡な対応をする妻の行動に思い当たっては暗い気持ちになった。

 だけど私には確認する方法はもうない。こうやって次郎の夜の散歩をしながらまた少しでも妻の記憶から疑問の答えがないかを探し続けるほかない。

 こんなに長く時を一緒にいても人は分からなくなってしまうものなんだなぁ、と私は冬の寒空に独りごちた。こいつはどこまで妻を分かっていたのだろうか、と犬の次郎に聞いてみたくもなった。


 その時、次郎の様子がおかしいことに気がついた。電柱の脇でいつからそうしていたのだろうか、ぐったりと座り込んでいた。気になる匂いがあるからちょっと待ってくれ、という感じではないのは黒い犬の後ろ姿からすぐに伝わってきた。

 私はどのくらいの間、次郎の異変に気が付かずに思案に耽っていたのだろうか。

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