第8話 コウノスケ②
次郎は散歩に対してはしっかりと権利のように催促するくせに、散歩中は至って無気力に義務のようにとぼとぼと歩く。
この歩き方は歳から来るものなのかとふと思案したが、この黒い犬がまだ若々しく活力を持っていた頃の散歩の様子というのを思い出すことができなかった。
よく考えるとそれもそのはず、妻が生きていた頃は彼女が散歩に連れ出すことが常だった。私が多くの時間を会社に捧げてきた事もあるが、思えば、たまの休みの日も妻は私に次郎の散歩を命じる事もなかったように思える。私は夜の街頭に照らされる、同じように黒い犬の背中を見つめてこの犬が若かかった頃を想った。
一頭しか飼ってないのに、次郎、と名前を名付けたのは妻だった。私としては意外だったが、彼女はこの犬に入れ込んでいた。
彼女の持ち前の勤勉さや真面目さ故だったのか、それとも元々かなりの愛犬家だったのか、いずれにせよ妻は次郎の世話をよくしていた。そんな彼女を見るにつけ、子供ができなかった私たち夫婦だったので、私は早く彼女に犬を買ってあげればよかったと思った事を覚えている。
もとより私がそんな事を思い付きもしなかったので彼女が自分で次郎を買ってきた訳だが。
今になって思うと、私は彼女に対してそんな風に気がつかない事ばかりだったのではないかと心が静かに沈んでいく。それは、先日のOB社友会で決定的となった。
深まりゆく冬の街灯の元、とぼとぼ歩く黒い老犬の背中を見つめていると自然と昔を思い出す。
同期の坂本とは何かと比べられる事が多かった。
電機メーカーの我が社は時代柄、同期入社は多かったが同じ事業部の同じ部に配属されたのは私と坂本だけだった。その上、私たちは隣の課だったので机も近ければ仕事内容も似ていたので、当然よく私たちは上司や先輩に比べられた。
私も坂本には負けまいと意識をしていた。だけど坂本はそんなライバル関係はどこ吹く風というか生来の飄々とした力の抜けた所のある奴で、あまりそう言った出世争いだとか評価とかは気にしていない男だった。そんな男だが、と言うべきか、だからこそと言うべきか分からないが、不思議と人を惹きつけ、先輩や取引先にも可愛がられる所のある奴だった。
私も内心では彼の事を認めていたし、新人の頃の最も大変だった時期の同じ釜の飯を食った戦友、と思っていた。やがて私たちは違う部署に異動になり、お互いに仕事の責任が増え、ポストを上がって役職を得て忙しくなり自然と疎遠になっていった。
最後に会ったのは坂本が会社を辞めるときの送別会だった。
坂本はいわゆる出世コースという訳ではなかったが、それでも楽しそうに仕事をしていたようだった。その時我々は40代の半ばで、彼は長野に戻って実家の造り酒屋を継ぐと言っていた。私は彼に必ず遊びに行く、と約束した。
「タエちゃんと遊びにおいでよ。美味い酒呑ませてあげるよ。また3人で飲もうぜ。」
昔と変わらない優しい人懐っこい笑顔で坂本は嬉しそうにしていた。
妻のタエは我々の3期下の一般職で、我々がまだ同じ部で仕事していた時に入社した。ちょうど仕事が自分だけで回せるようになり、後輩もできて仕事が楽しくなってきて、自分が世界の経済を回している、そんな風に思っているタイミングだった。
妻と坂本と私は、三人でよく呑みに行った。
きっかけがなんだったか覚えてないが、多分、人懐っこい坂本が初々しくて可愛らしい新入社員として同じ事業部に配属された彼女を目ざとく誘ってきたのが始まりだったのかもしれない。
私と坂本は月に何度も残業終わりにその会をやった。坂本は大学の時から付き合っている奥さんと入社して早々に結婚していて、私は彼の家庭の事を気にしたが、飄々とした彼は意に介していなかったようだった。時代は景気の良い雰囲気に浮かれ、東京という街そのものが輝いていて、若い私たちはなんだってできるような高揚感に包まれていた。
我々三人の集いは2、3年続いた。私が先に異動の内示を受け、部署の送別会の帰り際に妻を呼び止めて告白をした。
私はずっと言えなかった好意の気持ちを伝えると、びっくりした顔をしていた妻はやがて嬉しそうに、はに噛んだ。数日後、会社の昼休みに私の席に彼女がきてくれて、返事を貰った。
私たちは恋人になり、そして1年後に結婚した。私たちが付き合う少し前に、坂本の奥さんは妊娠して、私が異動してしばらして元気な男の子を産み、昔と同じ事ができなくなったと坂本は人生の先輩面をして私たちに告げて3人の会は消滅した。
そしてやがて私と坂本もお互いの生活と仕事に忙しく、次第に疎遠になっていった。
結局、送別会の後に坂本に会う事はなかった。
私は管理職になり、土日にお得意先との接待の用事が入る事も多く、若い頃に比べるとあっという間に1年が過ぎていった。ある日同期の連絡網で坂本が亡くなったと聞いた。まだ50代だった私は本当にびっくりした。
私たち夫婦は坂本のお葬式で長野の彼の地元を初めて訪れた。そこで私は一度も会う事がなかった彼の息子と対面した。
自分が4代目としてこれから酒蔵を盛りあげます、と若い頃の坂本の面影を残しながらも、飄々さのない力強い言葉で参列者に喪主として告げていた。
そして、その葬儀の場で振る舞われた坂本が作った日本酒を初めて頂いた。彼が送別会で言っていたように、そのお酒はとても美味しかった。
もっと早くなぜこの街にこなかったのか、と私はとても後悔をした。
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