第2話 半蛇に涙を

 ぼんやりと目を開ける。見えたのは空だった。

 さっそく死んで虫けらにでも生まれ変わったのだろうか。片腕を持ち上げてみると、見覚えのある指輪のはまった手が視界に入った。


「……あれ」


 これはアムリタの手じゃないだろうか。私は死んだんじゃなかったのかな。


「ああ、気がついたね」


 隣から知らない声がして、私は視線を動かす。澄んだ水のような青い瞳に見つめ返された。


「ふふ、驚いた。急にお姫様が落ちてくるから」


 薄い唇がゆるやかな弧を描く。いっそあおいほどに白い肌、濡れた烏の羽根のような黒髪。寺院の壁を彩る彫刻から抜け出してきたような美しい青年。

 けれど彼の下半身は、みどり色の鱗に包まれた蛇のそれだった。


 ――ナーガ。伝説に語られる蛇の精霊。

 その実在を今、初めて目の当たりにした。


 驚いて飛び起きそうになった私を、青年の腕がそっととどめた。


「慌てて動かないで。ゆっくりね」


 言われるまま、慎重に身を起こす。濡れた体から水が滴った。衣が体に貼りついて気持ちが悪い。

 ナーガの青年と目線の高さが同じになった。さっきの記憶が徐々によみがえる。私を見つめている青い瞳を、水の中でも見た気がする。


「あなたが……助けてくれたの?」


 半信半疑の私の言葉に青年は頷いた。


「うん。只人ただびとは水の中では死んでしまうから、助けた」

「そう……だったのね」


 ありがとう、と言おうとした瞬間、川に落ちる前の出来事がどっと脳裏に溢れ出した。

 森の離宮。ジャガトの脅迫。――呪い。

 とっさに喉に手を当てる。慌てて立ち上がり、辺りを見回した。

 私はさっき落ちた崖から少し下流の岸に引き上げられたらしい。足元には湿った土、頭上には張り出す木々の大きな葉。近くに水溜まりがあるのを見つけ、膝をついて覗き込んだ。


「……っ」


 を見た瞬間、怖気おぞけに息が詰まった。

 私の喉元、呪詛じゅそを吐くジャガトにつかまれたところには、くっきりと黒いあざが浮いていた。手形にもむしの這い跡にも見えるような、おぞましい痣が。

 話には聞いていた。呪いを受けた者にはこういった痣が浮かぶのだと。運命が決定され、二度と覆らないことの証なのだと。

 本当に私の人生は奪われてしまったのだ。そう思うと、目の奥がつんと痛くなった。


 静かな音とともにナーガの青年が這い寄ってきた。彼は私の顔を見つめ、囁くように言った。


「泣いてる。どうしたの、教えて」


 彼の言葉に顔を上げる。慌てて目元を拭いた。戦士の娘は滅多なことで泣いてはならぬと、亡くなったお父様も言っておられたのに。


「ねえ、お姫様。僕の名前はミーラ」


 ナーガの青年は穏やかに名乗る。その名は確か――大海、という意味ではなかったか。

 海を見たことはない。けれど彼の瞳は、物語に聞く波のような色をしていた。


「話してよ。せっかく助けた人が悲しいのは、僕も悲しい」

「……」


 私は膝を抱えて座り直した。知らない相手に身の上を語るなんて普通なら考えられない。けれど、もう死んだも同然の身であれば、今さらどうでもいいような気もした。


「――私はアムリタ。ここから山を二つ越えたところにある、ヒマーチャラ王国の王女よ」


 私の故郷は、冬になれば雪に閉ざされる山間の王国だ。人口においても軍事においても脆弱ではあったが、鉱物資源が豊かだった。少ない民に無理の及ばない範囲で宝石を掘り、加工を行う周辺諸国へ輸出していた。あまり手を広げすぎないのは、大国に目をつけられずに生き延びるすべでもあった。だがその戦略は、際限なき欲をもつ現マハーヴァナ王ジャガトを前に、はかなく崩れ去った。


 山脈を閉ざす雪がやけに少なかった年、ジャガトはヒマーチャラへ大軍を派遣した。私の父母である王と王妃をはじめ、多くの戦士が命を落とした。軍の進路にあった村々は焼き払われ、無辜むこの人々が惨殺された。数少ない生き残りも首都陥落寸前まで追い詰められた。

 そんな中、苦渋の選択として、当時十一歳だった私がジャガトの元へ人質に出されたのだ。王位継承者を差し出し、マハーヴァナの求める「和平」に応じて宝石も渡す。その代わり民には手を出すな、と。


 以来七年、私は敵国の王宮の一画に軟禁されて育った。逆らえばまた軍を差し向け、民を皆殺しにする、と脅されながら。私はじっと黙していた。資源を奪われ、なぜか天候にも恵まれない年の続いた祖国ヒマーチャラが少しずつ弱らされていっても。マハーヴァナの宮殿で、ジャガトの向けてくる視線が年々不快さを増していっても。

 ――けれどとうとう、限界を迎えたのだ。ついさっき、ジャガトに婚姻を命じられたときに。


「それで、呪いをかけられたの。お前はじきに死ぬし、未来みらい永劫えいごう人間には生まれ変われない……って」

「人間に生まれ変われないって、悪いこと?」


 目を伏せる私にミーラが問う。私は膝を抱く腕に力を込めた。


「悪いことよ。私たちは人間としてカルマを積むことで、いつかこの輪廻りんね解脱げだつするの。何度も現世を生き続けるのはつらいことだから。でも二度と人間になれなくて、虫やけだものに生まれ続けるのだったら――永久に輪廻を出られずに苦しむことになる」


 ああ――まただ。また目の奥が熱くなる。我慢したいのに、涙があふれてきてしまう。


「っ、私……まだ本当は、心残りもたくさんあって……なのに来世まで奪われて、こんな、ひどいこと……」


 人質の恥辱を耐え忍ぶ間、ずっと信仰にすがってきた。己に与えられた役目を果たし、神様に恥じない自分であり続ければ、たとえ今生では不可能でも、いつかは報われるはずだと信じてきたのだ。

 そのささやかな望みさえも奪われた絶望は、雪解けの山が雪崩なだれるように押し寄せてくる。涙が止まらなかった。


 ミーラの腕が私の肩を抱いた。慰めるようにそっと撫でられる。

 ――ぽつり、と静かな声が耳に届いた。


「ねえ。どうして来世まで待つの」

「え……?」


 私はぼんやりとミーラを見やる。彼は私と目を合わせ、優雅な口元に笑みを浮かべた。


「どうせ未来などないなら、今こうして息をしているうちに、心残りを全部なくせばいい。違う?」


 私は視線を落とす。自分の手のひらをじっと見つめた。

 濡れそぼった手。小さな手。ジャガトに強くつかまれれば、きっと抗うことのできない手。

 ――抗えぬままでいいのか。何もせず惨めに死んだら、あいつが喜ぶだけではないか。

 ダメだ。そんなことは許されない。未来をすべて奪われても、私にはなけなしの誇りがある。王女としての誇りが。人としての誇りが。


「……あなたの言うとおりかも」


 そうだ。どうせカルマそそいでも意味などないのなら。

 思うがままに悪業あくごうを積み上げて、高笑いしながら死んで、虫けらにでも何にでもなればいい。


 大きく息を吸い、ミーラに目を戻す。

 彼は微笑んで頷いた。


「いい顔になったね。覚悟を決めたなら、僕も手伝おう」


 それに小さく笑みを返したとき――ひとつの疑問が浮かんだ。


「ねえ。どうして協力してくれるの?」


 私が問うと、ミーラは小さく笑った。


「ふふ。だって助けてしまったし。君が泣いているのもかわいそう」

「それだけ?」

「ううん。何より、私もマハーヴァナ王が嫌いだから。今はそういうことにしておこうかな」

「……え」


 自然とともに暮らすナーガが、一国の王に恨みなど抱くものなのか。虚を突かれる私の前で、ミーラはいたずらっぽく目を細めた。


「あいつに吠え面かかせてやろうよ、王女様」

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