第2話 半蛇に涙を
ぼんやりと目を開ける。見えたのは空だった。
さっそく死んで虫けらにでも生まれ変わったのだろうか。片腕を持ち上げてみると、見覚えのある指輪のはまった手が視界に入った。
「……あれ」
これは
「ああ、気がついたね」
隣から知らない声がして、私は視線を動かす。澄んだ水のような青い瞳に見つめ返された。
「ふふ、驚いた。急にお姫様が落ちてくるから」
薄い唇がゆるやかな弧を描く。いっそ
けれど彼の下半身は、
――ナーガ。伝説に語られる蛇の精霊。
その実在を今、初めて目の当たりにした。
驚いて飛び起きそうになった私を、青年の腕がそっととどめた。
「慌てて動かないで。ゆっくりね」
言われるまま、慎重に身を起こす。濡れた体から水が滴った。衣が体に貼りついて気持ちが悪い。
ナーガの青年と目線の高さが同じになった。さっきの記憶が徐々によみがえる。私を見つめている青い瞳を、水の中でも見た気がする。
「あなたが……助けてくれたの?」
半信半疑の私の言葉に青年は頷いた。
「うん。
「そう……だったのね」
ありがとう、と言おうとした瞬間、川に落ちる前の出来事がどっと脳裏に溢れ出した。
森の離宮。ジャガトの脅迫。――呪い。
とっさに喉に手を当てる。慌てて立ち上がり、辺りを見回した。
私はさっき落ちた崖から少し下流の岸に引き上げられたらしい。足元には湿った土、頭上には張り出す木々の大きな葉。近くに水溜まりがあるのを見つけ、膝をついて覗き込んだ。
「……っ」
私の喉元、
話には聞いていた。呪いを受けた者にはこういった痣が浮かぶのだと。運命が決定され、二度と覆らないことの証なのだと。
本当に私の人生は奪われてしまったのだ。そう思うと、目の奥がつんと痛くなった。
静かな音とともにナーガの青年が這い寄ってきた。彼は私の顔を見つめ、囁くように言った。
「泣いてる。どうしたの、教えて」
彼の言葉に顔を上げる。慌てて目元を拭いた。戦士の娘は滅多なことで泣いてはならぬと、亡くなったお父様も言っておられたのに。
「ねえ、お姫様。僕の名前はミーラ」
ナーガの青年は穏やかに名乗る。その名は確か――大海、という意味ではなかったか。
海を見たことはない。けれど彼の瞳は、物語に聞く波のような色をしていた。
「話してよ。せっかく助けた人が悲しいのは、僕も悲しい」
「……」
私は膝を抱えて座り直した。知らない相手に身の上を語るなんて普通なら考えられない。けれど、もう死んだも同然の身であれば、今さらどうでもいいような気もした。
「――私はアムリタ。ここから山を二つ越えたところにある、ヒマーチャラ王国の王女よ」
私の故郷は、冬になれば雪に閉ざされる山間の王国だ。人口においても軍事においても脆弱ではあったが、鉱物資源が豊かだった。少ない民に無理の及ばない範囲で宝石を掘り、加工を行う周辺諸国へ輸出していた。あまり手を広げすぎないのは、大国に目をつけられずに生き延びるすべでもあった。だがその戦略は、際限なき欲をもつ現マハーヴァナ王ジャガトを前に、はかなく崩れ去った。
山脈を閉ざす雪がやけに少なかった年、ジャガトはヒマーチャラへ大軍を派遣した。私の父母である王と王妃をはじめ、多くの戦士が命を落とした。軍の進路にあった村々は焼き払われ、
そんな中、苦渋の選択として、当時十一歳だった私がジャガトの元へ人質に出されたのだ。王位継承者を差し出し、マハーヴァナの求める「和平」に応じて宝石も渡す。その代わり民には手を出すな、と。
以来七年、私は敵国の王宮の一画に軟禁されて育った。逆らえばまた軍を差し向け、民を皆殺しにする、と脅されながら。私はじっと黙していた。資源を奪われ、なぜか天候にも恵まれない年の続いた祖国ヒマーチャラが少しずつ弱らされていっても。マハーヴァナの宮殿で、ジャガトの向けてくる視線が年々不快さを増していっても。
――けれどとうとう、限界を迎えたのだ。ついさっき、ジャガトに婚姻を命じられたときに。
「それで、呪いをかけられたの。お前はじきに死ぬし、
「人間に生まれ変われないって、悪いこと?」
目を伏せる私にミーラが問う。私は膝を抱く腕に力を込めた。
「悪いことよ。私たちは人間として
ああ――まただ。また目の奥が熱くなる。我慢したいのに、涙があふれてきてしまう。
「っ、私……まだ本当は、心残りもたくさんあって……なのに来世まで奪われて、こんな、ひどいこと……」
人質の恥辱を耐え忍ぶ間、ずっと信仰にすがってきた。己に与えられた役目を果たし、神様に恥じない自分であり続ければ、たとえ今生では不可能でも、いつかは報われるはずだと信じてきたのだ。
そのささやかな望みさえも奪われた絶望は、雪解けの山が
ミーラの腕が私の肩を抱いた。慰めるようにそっと撫でられる。
――ぽつり、と静かな声が耳に届いた。
「ねえ。どうして来世まで待つの」
「え……?」
私はぼんやりとミーラを見やる。彼は私と目を合わせ、優雅な口元に笑みを浮かべた。
「どうせ未来などないなら、今こうして息をしているうちに、心残りを全部なくせばいい。違う?」
私は視線を落とす。自分の手のひらをじっと見つめた。
濡れそぼった手。小さな手。ジャガトに強くつかまれれば、きっと抗うことのできない手。
――抗えぬままでいいのか。何もせず惨めに死んだら、あいつが喜ぶだけではないか。
ダメだ。そんなことは許されない。未来をすべて奪われても、私にはなけなしの誇りがある。王女としての誇りが。人としての誇りが。
「……あなたの言うとおりかも」
そうだ。どうせ
思うがままに
大きく息を吸い、ミーラに目を戻す。
彼は微笑んで頷いた。
「いい顔になったね。覚悟を決めたなら、僕も手伝おう」
それに小さく笑みを返したとき――ひとつの疑問が浮かんだ。
「ねえ。どうして協力してくれるの?」
私が問うと、ミーラは小さく笑った。
「ふふ。だって助けてしまったし。君が泣いているのもかわいそう」
「それだけ?」
「ううん。何より、私もマハーヴァナ王が嫌いだから。今はそういうことにしておこうかな」
「……え」
自然とともに暮らすナーガが、一国の王に恨みなど抱くものなのか。虚を突かれる私の前で、ミーラはいたずらっぽく目を細めた。
「あいつに吠え面かかせてやろうよ、王女様」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます