第3話 水に願いを

「というわけで。君が叶えたい願いを教えてよ」


 谷川にほど近い、小さな洞窟の中。入口から優しく差し込む光に照らされ、頬杖をついたミーラが微笑んだ。

 彼と話していたら涙も止まったし、今後の方針も定まったような気がしていたが、具体的には何も決まっていないと気づく。

 ずっと国のために己を殺してきたのが私、王女アムリタだ。自分自身の願いなんて、そういえば考えたことがなかった


「……うーん」


 本気で考え込んでしまう。頭の中を掘り返してみるが、何も思い浮かばない。

 ミーラはそんな私をじっと見つめていたが、やがて小首をかしげて口を開いた。


「じゃあ、今どんな気持ちなのか、教えて」


 ……それなら答えられる気がする。

 ずっと胸の奥にわだかまっているから。苦くて、ひりついて、吐き気を催すような感情が。


「――ジャガトが、許せない」


 一度口に出してしまえば、感情は嵐雲のように荒れ始める。胸が張り裂けそうな錯覚を覚えて、顔が歪む。


「どうしてなのよ――どうしてあいつは、こんなふうに踏みにじるの? 私のことも、私の国のことも!」


 父を串刺しにされた恨み。母の首をねられた憎しみ。

 戦馬車でマハーヴァナ王国へと連れ去られながら、累々るいるいと転がされている民の亡骸を見たときの嘆き。

 嘲られ、蔑まれ、呪いをかけられたときの、途方もない絶望。

 すべてが一気によみがえってくる。冷えた手が震えだす。


 ――そこにふと、ミーラの手が重ねられた。

 青い目が私の顔を覗き込む。その奥には小さなきらめきが宿っている。


「じゃあ、踏んでやれば?」

「……は?」


 さすがに予想外すぎる一言だった。憎悪も絶望も一瞬忘れて、私はぽかんと口を開ける。

 他方のミーラは至極こともなげに言った。


「踏まれたらあいつも君の気持ちが分かるかも」

「う、うーん、それはどうかなあ……」


 マハーヴァナ王ジャガトが他人の気持ちを理解できるような人間だったら、そもそも最初からこんなことになっていないのではないか。

 面食らう私の目の前で、ミーラが人さし指を立てた。


「というのは冗談。でも、ちょっとスッキリはするでしょう?」

「……うん」


 そうかもしれない。気位が高すぎるほどに高いジャガトのことだから、女に足蹴にされるなど恥辱の極みだろう。

 私が小さく頷くと、ミーラは愉快そうに目を細めた。


「その意気。それに古来、女神は悪鬼の上で踊るものだよ」


 彼の言うとおりだ。悪鬼を殲滅してその死体を踏む女神の図は私も見たことがある。

 だがひとつ、重大な問題がある。私は必滅の力を持つ女神などではないのだ。


「またのこのこ現れたら、今度こそあいつに殺されると思うんだけど」


 私が眉を下げると、ミーラはきょとんと目をしばたたき、また小さく微笑んだ。


「僕が力を貸すから大丈夫。さっと踏んでさっと逃げよう」

「何よ、それ」


 ……やっぱり無茶を言っている気がする。この亜大陸いち強大な王国の主なんて、踏んでやるどころか、指先でかすめることも難しいのではないだろうか。

 私の手を握る指に、ミーラが少しだけ力を込めたのが分かった。


「あのね、アムリタ。僕は呪いのことなら少しだけ詳しい。だから、こう言える。――君を呪ったことで、マハーヴァナ王の運命もまた君に縛りつけられた。だから、あいつは君から逃げられないよ」

「……どういうこと?」


 私が首を傾げると、ミーラはいつになく真面目な表情で私を見返した。


「呪いとは強い言葉で相手を縛ること。そして縛った縄の先は、しっかり握っておかなければ意味がない。そうだね」

「……うん」


 ミーラの長い指がすっと伸びる。私の喉元のあざを、触れない程度の距離でなぞった。


「君にその印を刻んだ以上、あいつと君の運命は強く結びつけられた。君の運命は書き記されたけれど、あいつもあいつで、ずっとその本を持っていなくちゃならない。――このことを逆手に取れば、君は死ぬまでの間、いくらでもあいつに復讐できる」

「……」


 冷えたままだった体が、少しずつ熱くなる気がする。

『じきに死ぬ』というのがいつになるのかは分からない。けれど、それまでの間に――少し溜飲を下げるくらいのことはできるのだろうか。

 ミーラが身を乗り出す。青い瞳が私をじっと見つめた。


「だから、君に祝福を授けてもいいかな」


 祝福とは何だろうか。分からないまま、海のような瞳に気圧されて小さく頷く。次の瞬間、やわらかいものが私の額に触れた。――ミーラが私の額に口づけたのだ、と気づくまでしばらくかかった。

 少し赤くなって額を押さえる。ミーラは柔らかく目を細めた。


「おしまい。これで君と僕は、水のあるところ、どこへでも行ける」

「え?」

「さあ、ついておいで」


 ミーラが身を起こし、洞窟を這い出ていく。私はそのあとを追い、谷川のほとりへ歩み寄った。そこから見やれば、子ども一人分の背丈ほど離れた眼下で、すみやかに流れる川面が輝いている。

 私が隣に立つと、ミーラは黙って片手を差し出した。あおいほどに白い彼の手のひらと、それに比べれば血色のいい自分の手を見比べる。何度目かにようやく決意が固まり、彼の手を取った。

 嬉しそうにミーラが微笑む。――そして私の手を引き、川の中へ飛び込んだ。


「……っ!!」


 さっき墜落したときのような衝撃を覚悟して身構える。けれど、水面に打たれる痛みは襲ってこなかった。

 むしろ水に触れた瞬間、とろりと溶け込むような感覚を覚えた。錯覚ではない。一切の抵抗なく、すいすいと体が水中を滑ってゆく。どういう仕組みなのか全く分からない。分からないが、自分は今、水の流れと一体になっているのだ。

 それもただ押し流されているのではない。見えない手にしっかりと引っぱられているのが分かる。

 冷たくも優しい、この手の感触は――確かにミーラだ。


 ――水のあるところ、どこへでも行ける祝福。

 水の精霊であるナーガの力を分け与えてくれたのだろうと得心がいった。


 ふいに川の流れとは異なる何かを感じた。水に溶け込んだ全身がひどく鋭敏になっている。

 耳の奥にミーラの声がやわらかく響いた。


『雨だよ、アムリタ』


 確かにそうだ。突然に降り出した大粒の雨が川面を激しく叩いている。

 ミーラの声はいたずらを思いついた子どものように浮き立っていた。


『ちょうどいい。あいつのところへひとっ飛びだ』

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