怒れる王女は女神に近い ~人質姫は耐えるのをやめて侵略王の首を獲りにいく~

佐斗ナサト

第1話 王女に呪いを

 ――これは栄誉だ、と目の前の男は言った。

 その猫撫で声に、私の背筋はぞわりと粟立つ。


「我が第二妃になれ、アムリタ。そうすればお前の国に庇護ひごを与えてやる」


 父親でもおかしくないほどに年の離れた男が、黒いひげを撫でながら、私を舐め回すように目を細める。喉の奥にいものが込み上げる。私に拒めるはずがないと分かったうえで言っているのだ。

 でも。


「――絶対に、嫌っ!!」


 勝手に右手が動く。思いきり振り抜いた瞬間、ぱぁん、と高い音が響いた。

 従者たちがざわめく。頬を押さえた男――マハーヴァナ王ジャガトがふらふらと後ずさった。

 私は荒く息をしながら、その顔をじっと見つめ返した。


  ***


 離宮へついてこい、と命じられたときから嫌な予感はしていた。ジャガトのことだから、逃げられないようにして私を強請ゆする気なのだろうと思っていた。

 行かない、と言えたらどれほどよかったろう。でも人質である私に選択肢なんてないのだ。十一歳のとき、この国へ無理やり連れてこられてから、ずっと。


 故郷の山脈に積もる清らかな雪が脳裏をよぎる。

 アムリタ王女殿下、と呼ぶ温かな声が耳の奥に響く。

 だけど、そのいずれも私には遠い夢だ。


 初めて連れてこられた離宮は、緑茂る大きな森を少し入ったところにあった。マハーヴァナ王家が代々、狩りなどの際に使ってきた場所なのだという。どこかから奴隷に運ばせたのだろう白い石を組み上げ、幾本もの柱に支えられた宮殿が築かれている。主殿は広い露台にぐるりと囲まれており、いかにも風通しがよさそうだった。

 それだけ見れば趣味は悪くないが、現王ジャガトはひどい派手好きだ。一歩中に足を踏み入れれば、彼自らが狩ったという虎の毛皮や鹿の角がこれ見よがしに飾られ、けばけばしい色柄の紗幕や絨毯、金銀の装飾があちらこちらで存在を主張する。焚きしめられた香の匂いも、色が見えてきそうなほどに強烈だ。すべてが静謐せいひつな森とあまりに不釣り合いで、私は目眩めまいを起こしそうだった。

 いや、趣味の悪さに目眩を起こすだけで済んでいれば、まだマシだった。荷解きも終わらないうちに、私はジャガトの居室に呼びつけられた。


 ――そして社交辞令のような会話ののち、彼に迫られたのである。


「小娘だったお前が、まあずいぶんと美しく育ったものだ。城下にも噂が流れているぞ。その黒髪の豊かなること、大河のごとし。肌は雪華なり、瞳は灰色の瑪瑙めのうなり――と」


 ジャガトは嫌らしく笑う。きらびやかに飾られた椅子から立ち上がり、一歩、二歩と私の方へ踏み出す。きらめく胸帯チャンナヴィーラ、絹の衣。王冠には大きな青白い石が輝いている。


「だが、お前の美しさを知るのは我のみでよい。そうは思わんか? アムリタ」


 私は独り、震える足で後退した。だが露台の手すりが私を阻む。ジャガトは粘るような足取りで距離を詰め、私のあごに手をかけた。


「脆弱な小国にとって、我がマハーヴァナ王国以上の後ろ盾はなかろう? 我が元に嫁げば、お前の国――ヒマーチャラであったか? その名が永久に歴史に残るようにしてやるぞ」


 親指の先が私の唇に触れる。節の目立つ長い人さし指が、私の大きな耳飾りを弄ぶ。床まで届く私の腰布アンタリーヤの裾に、やつの足先が入ってくる。晒された腰にやつの左手が触れる。振りかけられた香水の匂いが喉を詰まらせる。気持ちが悪い。全身に鳥肌が立つ。

 男の背後に見える豪奢ごうしゃな装飾の部屋も、ただただ吐き気を催す代物に映る。

 近くではジャガトの従者たちが見ているが、誰も止めようとはしない。


 拒めばどうなる? 戦士階級の女は結婚相手を選ぶ権利を持っているとはいえ、私はあくまで人質だ。祖国ヒマーチャラに軍が差し向けられるだろう。一人で国を守っている将軍が、私のおじにも等しい人が殺されるだろう。

 ジャガトの残虐な軍はそれだけでは止まらない。きっと民を蹂躙じゅうりんし、奴隷とし、逆らう者は今度こそ殺し尽くす。

 私は腐っても王女。祖国に責任を負う立場なのだ。だからこそ戦士の誇りなど棄てて、犠牲にならなければ。罪なき人々の命を守るために。


(……承りました)


 そう言おうと思っていた。

 けれどジャガトの唇が近づいてきた瞬間、口をついて出たのは全く違う言葉だった。


「――絶対に、嫌っ!!」


 とっさのこととはいえ、人を平手打ちにしたのは初めてである。


「アムリタ……貴様」


 私も自分に驚いた。自分の右手とジャガトの頬を交互に見比べる。とんでもないことをしてしまったという実感が湧いてきて、全身が寒くなってきた。

 ジャガトの顔に朱が上る。目が怒りの色に燃える。その口から絶叫がほとばしった。


「よくも――よくも! みじめな人質ふぜいが、偉大なるマハーヴァナ国王に恥をかかせたな!」


 いらえを返す間もなかった。

 ジャガトの手が私の喉を絞めたから。薄い肉に指が食い込むほどの力で。


「よかろう――我が名において、ここに貴様を呪ってやる」


 ぎらつく目がこちらを見据える。同時にジャガトの手からじわじわと熱が湧き始める。いくらもしないうちに、それは焼いた鉄棒を押しつけられるような熱さに変じた。

 そういえば、いつか聞いた。執着と欲の化身のようなジャガトは、そのぶん強力な呪者じゅしゃであるのだと。

 呪いをかけられるのは初めてだ。苦しいとは聞いていたけれど、死さえ頭をよぎるような苦痛に、わずかな声すら出ない。

 悶える私の耳に、ジャガトの声が届く。


「王女アムリタよ。貴様はじきに死ぬだろう。死んだのちも、二度と人間には生まれ変われぬ」


 ジャガトが私の首を放す。手は離れたのに、焼けるような熱さがいっそう増す。私は喉元を押さえて膝をついた。

 両の目を血走らせ、ジャガトは哄笑こうしょうする。うずくまる私を見下ろし、怖気立つような響きで笑い続ける。


「永久に輪廻りんねをさまよい、畜生として苦しみ続けるがいい! ナクシャトラが嫡子ちゃくし、マハーヴァナ国王ジャガトの名において――!」


 その言葉と共に、ジャガトが腰の剣を抜いた。白い刃が真昼の太陽を受けてぎらりと光った。


(――殺される)


 死の際へ追い詰められれば、人はどうやら何でもできるらしい。

 焼けつく激痛を忘れて、私は背後の手すりを跳び越えた。一階分の高さを飛び下り、転げるように着地し、もつれる脚で森の奥へと逃げ出した。自分の背丈ほどもある草をかき分け、茂る枝を押しのけ、うねる木の根を跳び越え、全力で走った。

 追え、という叫びが聞こえた。焦りが募る。周りが見えなくなる。裸足のまま、何度か木の根につまずき、それでもただ走り続けた。

 どこへ逃げればいいのかも分からない。逃げてどうなるものかも分からない。何も分からないのに、止まることができなかった。


 ――突然、足が空気を踏んだ。

 ぐるり、と体が回転する。崖から足を踏み外したのだと気づくのに一瞬かかった。

 眼下には急流が見える。底の見えない荒ぶる水面へ、真っ逆さまに落ちていく。


 ああ、『呪い』なるものは絶対だというのは、やっぱり本当らしい。

 私はじきに死ぬのだ。溺れて、流されて、誰にも看取みとられずに。

 しかも私に人間としての来世はない。ジャガトの呪詛ことばによって、そう定められた。只人ただびとより上へ昇ること、現世における輪廻の苦しみから解脱することは、未来みらい永劫えいごう許されないのだ。

 こんなふうに終わると分かっていたなら――私は、どうしたかった?


 水面に体が打ちつけられる。一瞬で肺から空気が逃げていく。

 目が水中をさまよう。押し流されていく。懸命にもがいても、腕が掻くのは水流ばかりだ。


 最後の力が抜けた、その時だった。

 誰かが私の腕をつかんだ。冷たくて――それでも優しい、不思議な手で。


 意識を失う寸前に見えたのは、長く輝く蛇の尾。

 そしてこちらをじっと見つめ、青くきらめく人間の瞳だった。


『……お姫様。今、助けるからね』

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