蒼の色は、今日も葵い。
羽賀
第一章
真夏の茹だる暑さ、セミが鳴き、生暖かい風が頬を切る。扇風機の意味をなさないこの場所は自分にとっては酷く苦痛に感じた。ポタリとおでこを辿り垂れる汗が鬱陶しい。正座をした僕の眼の前に机を介して眼鏡越しでも分かる険しい表情を浮かべ、腕を組む父親の表情はどう考えても怒っているだろう。
「あの…父さん、僕さ」
「もう一度言ってみろ。葵。」
「僕…東京の大学に行きたいんだけど……」
「どうしてだ?もうお前は三年生で半年後には卒業を控えているんだぞ。今更東京に越したいだなんていうのは…」
「ずっと考えていたんだ…僕はこの家を継ぐほど脳みそがあるわけでもないし、それにもっと色んな世界を経験することも大事だと思ったんだ」
「ならん。東京の大学に行って何になる?お前にとって害になる存在が沢山あるだけだ。お前はすぐに周りに流されるんだからそこらの人間に騙されて泣いて帰って来るに違いない」
《楠木 葵》女の子のような名前だとよく言われるが僕は正真正銘の男である。悲しいことに自分の意志を持ったことがない人間が、ようやく意思を持ったと思えばその思いはほんの一瞬で打ち砕かれるらしい。葵はしまったなあ、と心のなかで毒吐きながら正座をした上に置かれている自分の握り拳を眺めた。恐らく手の内側は汗でびっしょりだ。
「この宿を経営することも大事だって僕もわかってるよ…でもそれは翠兄さんが継ぎたいって前から言ってたしさ…」
「お前が翠ほどできた人間であったら東京に行くという言葉も簡単に呑んであげただろうな」
「うっ…ぼ、僕だって成績は中の上ぐらいだし…」
「テストだけ出来てもそんなものはその場しのぎだ」
父が頑なに否定するのも分かるのは分かるのだ。葵の家は代々受け継がれてきた老舗旅館なのだが、その伝統を重んじ後継者は原則その家の者のみとしているのだ。楠木家には葵の他に翠というかなり年の離れた兄がいるのだが、翠がそれはそれは有能なのである。
大学では東京に上京して経営学を専攻し、その縁から良い所の家出の人と結婚しこっちに戻ってきた。現在は市役所で働きながらキャリアを築いていてもうすぐ第二子が生まれるらしい。自分とはあまりにも違いすぎるからもはや別の人間として見ているのだが、如何せん事あるごとに比べられるのがオチである。
「とにかくだ。東京に進学するなんて許さん。お前は卒業したらこの家に身をおいて翠が後を継ぐまでここを切り盛りするんだ」
「ええ…それじゃあせめて他の地方の大学に…」
「そもそもお前には行きたい学部などないんだろう。この家にいるのが嫌で適当に家から離れられる場所を探しているだけだ。甘えるんじゃない」
「いや…違う、違うってば……」
またなにか言葉を発しようとしたのだが時を待たずして父はため息を付きながら「この後来客予定のお客様の客室の清掃をしておけ」と言い放ち離席してしまった。ドスドスと不機嫌を示唆する足音が余計葵の肩を重くした。
そんなこんなで今回も見事交渉は決裂したわけだ。元から成功するだなんて思ってはいなかったが、案の定葵の意見は無に返したわけだ。
「いやまあ…分かってたけど」
客室の清掃をしろと言われても全くやる気なんてものは湧き上がらないもので、そのまま畳の上に寝転がった僕は天井のシミを数えた。この家はこの地方では由緒ある宿屋で、何度かメディアも取材に来たことがあるくらいには有名だ。地元の人達との交流も多く、町内会の会議だってここで起きることも多い。
葵自身も小さい頃からこの村の人達にはお世話になっていて、可愛がられてきたものだ。その恩を忘れる訳では無いが、葵にはどうしてもここを出ていきたい理由があったのだ。
「僕がゲイだなんて知ったら…父さんきっとカンカンに怒るだろうなあ」
生まれて18年。決して言えない秘密はきっとこの先も未来永劫誰にも言うことはないだろう。もしもこんな噂が村で広まって、父の耳にでも入ってしまった暁にはきっと殺されてしまう。同性愛とかそういった類がまだ浸透していないこの村が、ゲイだのバイだのといったものに理解を示すわけがないのだ。
ただでさえ葵のことを兄と比べては勝手に失望する父のことだ、きっと絶縁は免れないだろう。そうなってしまったら大学どころの話ではなくなってしまう。
自分に自由なんてものはないのだ。縁側の向こうには大自然が広がっているというのに、僕はこの場所にいると息がしにくい。昔からずっと、この息苦しさを我慢して育ってきたがここで一生を終えるのは絶対に嫌だ。伝統ある旅館だからなんだというのだ、市役所なんかさっさと辞めて後を継げばいいものを葵を踏み台にするというのか。
「…はあ。生きづらいなあ」
僕は今日も、この自然に溢れた場所でひとり息を殺すんだ。
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