第20話 轟音と叫びのはざまで

烈道と丑吉は、裏山の急な斜面を駆け上がっていた。湿った土が草鞋にまとわりつき、枝葉が頬をかすめる。それでも二人の足取りは止まらない。


山の奥から、低く唸るような轟音が夜気を震わせながら流れてくる。

遠くで木々が裂ける音が響き、火の粉がふわりと舞い上がって、闇の中に一瞬だけ赤い灯をともした。

その合間を縫うように、弥八のあの豪放な声が、かすかに夜風に乗って届いた。



「……弥八、迅太、死ぬなよ」


烈道の声は低く、どこか祈りにも似た響きを帯びていた。横顔には険しい影が宿り、額を伝う汗が月明かりに細く光る。


丑吉は荒い息を吐きながら、言葉ひとつ発せずその背を追った。

轟音が響くたびに、思わず顔をしかめながらも、足を止めることはなかった。


二人の目指す先は、落とし穴だった。烈道も清之助も、考えることは同じだ。


登るほどに、山の空気は冷たく張り詰めていく。

湿り気を帯びていた土は次第に乾き、足音がぱりぱりと枯葉を裂いた。

どこかで夜鳥が短く鳴き、風が抜けるたびに松葉が擦れ合う音がした。


その時、化け物の轟音がふいに途切れる。


烈道は足を止めなかったが、胸の奥でひときわ強く脈が打つ。

耳の奥に残る轟音の余韻が、かえって不気味な静けさを際立たせていた。


「……音が、止んだな?」


呟く声に、自らの不安がにじむ。風が途絶え、木々のざわめきも消えている。その沈黙が、まるで何かが潜んでいるようで、烈道の背筋をわずかに冷やした。


だが、振り払うように頭を振ると、再び闇を睨みつける。


烈道は目を凝らし、闇の奥を見据えた。

その先に、わずかに動く影が見えた。


――庄兵衛だ。


月明かりに浮かぶ庄兵衛の背は、いつもよりもずっと硬く、張りつめた気配をまとっていた。

滲む汗が湯気のように立ちのぼり、怒りの熱が夜気を震わせている。


「……よし」


烈道は短く声を投げた。気づいた庄兵衛が小さく頷き、迷いのない足取りで落とし穴の縁へと歩み寄る。


「それでいい」


烈道の視線が次に向いたのは、穴の中で近くにあった錆びついた掘り鋤(ほりすき)を使い、穴をさらに深くしていた清之助だった。


清之助もすぐに気づき、両者ほとんど同時に頷く。

荒い息を整えながら、月光を受けて背中に背負う鎖の一部がわずかに光り、張りつめた空気の中で鋼の息づかいが響いた。


烈道は一瞬だけ思案の色を浮かべたのち、鬼のような形相をした庄兵衛の肩を、なだめるようにそっと叩き、そのまま静かに手を置いた。


「庄兵衛、よくやった。あとは丑吉に任せる。塞ノ祠で小次郎を待て。そして、小次郎の焙烙玉と鉄砲──ありったけ持って来い。ここに賭けるぞ」


汗に濡れた庄兵衛は、短く「はっ」とだけ返した。

烈道はその肩に置いていた手を静かに離し、労うように背を優しく叩いた。


庄兵衛は、そのほんの小さな優しさに胸を突かれ、思わず目頭が熱くなった。

すぐに背を向け、見られまいとするように手の甲で目元を拭う。


その仕草を、烈道は見逃さなかった。

そして庄兵衛は、逃げるように林へと駆け出し、やがて闇の中へとその姿を溶かしていった。

烈道は細めた目でその背を見送り、静かに息を吐いた。


次の瞬間、細めた目を見開き、再び炎の光が宿る。烈道は振り向きざまに声を張り上げた。


「丑吉!お前は大石と丸太を集め。化け物の足音が近づいたら、陰に潜め。奴が落とし穴に気づいて立ち止まったら、自慢の金棒で叩き落とせ。失敗したらいい、迷わず逃げろ。忘れたら清之助に聞け……わかったな!」



丑吉は烈道の言葉を一語も漏らすまいと、強く頷いた。


烈道は無言でその肩を見上げた。

高すぎて手が届かぬその肩の代わりに、腰をぽんと叩く。


「死ぬなよ、丑吉」


その声には、先ほどの厳しさが嘘のような、穏やかな温もりが滲んでいた。


烈道は次に膝を折り、清之助の方へ身をかがめた。


「清之助、聞いてたな。丑吉を頼む。儂は弥八の方へ行く。庄兵衛が戻って準備が整ったら──この笛を吹け」


烈道は腰から小笛を抜き、放るように渡した。


「合図があれば、化け物をここへ誘い込む。いいな?」


清之助は短く息をのみ、力強く頷いた。


「お任せください」


「よし。奴が落ちたら、ありったけ焙烙玉を叩き込め。石でも構わん。ここで片をつけたいが……まだ、どう転ぶか分からん。無理はするな」


「はっ!」


烈道は肝心なことだけを清之助に告げ、静かに立ち上がった。不安げな丑吉を励ますように、もう一度その大きな腰を軽く叩く。


「大丈夫だ」


「……」


丑吉は相変わらず無言のまま、ただ深く頷いた。

烈道はその姿にわずかに目を細め、これから命を賭す戦いの前に、最後の優しさを滲ませた。


そして、闇の向こう――まるで四人のやり取りが終わるのを待っていたかのように、弥八の勇ましい叫びが遠くから聞こえてきた。


「あっちか……」


轟音が途絶えたのは、弥八が討たれたからではない。そのことに胸の奥でほっと息をつきながらも、烈道は老いた身を叱咤するように再び駆け出した。

闇を裂くように睨み据えたその眼は、なお若武者のごとく鋭かった。

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