第21話 闇に交わらぬ声


弥八は駆けながら、頭のどこかで次の言葉を探していた。


何を言えば、あの厄介な火玉を撃たなくなるか――そして、どうすれば少しでも時間を稼げるか。

その思案が、命綱のように脳裏を巡っていた。


茂みの奥では、迅太が息を殺して弥八の動きを見つめている。枝の隙間から覗くその目には、恐怖と焦燥、そして仲間を信じる強さが入り混じっていた。


一方、黒銀の巨影が、地を裂く勢いで突進してくる。火玉は撃たない。ただ、全身を武器に変えたかのような猛進だった。


弥八はその動きを見て、わずかに目を細めた。

――来やがったな。やっぱり走る気か。挑発に乗ったか、それとも弾切れか。


胸の奥で荒ぶる鼓動を押さえつけるように、息を整える。

――火玉が来ないなら、それでいい。撃たぬうちは、いくらでも時間を稼げる。


そう腹を括ると、弥八は地を蹴り、闇の中へと再び身を躍らせた。枝を踏み砕き、岩を蹴り、軽業師のように身を翻す。その途中で、わざと振り返って大声を張り上げた。


「おーい、うすのろ! こっちだ、のろま! どうした、馬鹿の一つ覚えの火玉はもう撃たねぇのか? 鉄くず野郎!」


さらに試すように、火玉を撃たせぬ挑発を重ねる。

跳ねるように身を躍らせ、闇の中でぴょんぴょんと動き回るその姿は、まるで戦場で踊る道化のようだった。だが、その軽口の裏には、命を懸けた計算が潜んでいた。


――火玉を撃たない。

それどころか、追いすがるように走りながらも、一度として尾の光を灯す気配すらない。

まるで、こちらの挑発の意味を理解し、意図的に応じていないかのようだった。


どれほど走っただろうか。

背後の気配がふいに変わった。

黒銀の化け物が――止まった。


「……お? 疲れたか」


あれほど暴れ狂っていた轟音が、嘘のように消えた。木々のざわめきも止まり、夜の闇そのものが息を潜めている。冷たい風が吹き抜け、弥八の汗ばんだ首筋をなぞった。


肩で荒く息を吐き、膝に手をつく。

胸が焼けるように熱く、喉は乾ききっていた。


「……はぁはぁ、もういいか」


弥八は震える息を吐きながら、指笛を吹いた。

疲労で唇がうまく合わず、最初の音はわずかに外れた。それでも、かすれた高音が夜気を裂き、闇の中へと鋭く響き渡った。


その音を合図に、茂みの奥から迅太が駆け寄ってきた。月明かりに照らされたその顔には、緊張と決意が入り混じっている。


弥八は肩で息をしながら、短く言葉を吐いた。

「……疲れた。交代だ。あいつは言葉が分かる。火玉を小馬鹿にしろ。聞いてたな、頼むぞ。無理はするな。指笛でまた交代だ」


荒い呼吸の合間に絞り出すような声。多くを語らずとも、戦場ではそれで十分だった。


「……はいっ!」


迅太の返事はわずかに上ずり、緊張が滲んでいた。それでもその瞳には、確かな覚悟の光が宿っていた。


弥八が闇に消えるのを見届けると、迅太は胸に残る緊張を振り払うように声を張り上げた。


「おい! 化け物! 今度は俺が相手だ!」


挑発の叫びが、乾いた夜気を裂き、山の闇に鋭く突き刺さる。その声には、恐怖を押し殺し、己を奮い立たせる怒号が混じっていた。


黒銀の化け物は、その声に呼応するようにぴたりと首を動かした。兜の奥の青白い双眸がぎらりと光を宿す。


その瞬間、化け物の喉奥から、低く、どこか言葉めいた響きが漏れた。


「……ルァ=グロ……ラ=セラ……ガル・ロゥス……」


まるで異国の祈りか、呪詛のようなその声が、闇の奥から響いた。


遠く離れた場所でも聞こえるその不気味な声に、迅太は思わず息をのんだ。冷たいものが背筋を駆け上がり、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。


「……言葉を喋れるのか! 獣より馬鹿じゃねぇみたいで安心したぜ! おら、どうした! 来いよ!」


迅太は笑いながらも、唇の端がわずかにひきつった。それは恐怖を押し殺すための笑いだった。


黒銀の巨体が、ゆっくりと両腕を広げる。

甲冑のような外殻が低くきしみを上げ、地を踏みしめるたびに岩が軋む。化け物の尻尾の三枚羽根が、音もなく閉じる。


先端が青白く光を帯びはじめ、その光は脈を打つように膨張していく。空気が震え、地の底から唸りが湧き上がる。まるで空そのものが圧し潰されていくようだった。


「……なんだ……?」


迅太の胸の奥で鼓動が跳ね、汗が頬を伝う。

次の瞬間、青白い閃光が夜を裂いた。轟音が山を揺るがし、火玉とは異なる衝撃波が地を這う。

光の尾を引きながら、化け物が地を蹴った。


爆ぜるような勢いで木々をなぎ倒し、あっという間に距離を詰める。

大木の目前で、青白い閃光がふっと消えた。

化け物はその勢いのまま前方の巨木を蹴りつける。


「ミシッ」と木が悲鳴を上げたが、どうにか持ちこたえた。


「なっ……!」


迅太は反射的に身をひねり、大木のさらに奥の木陰へと飛び込む。瞬時に立ち上がり、地を蹴った。


「嘘だろ……! うすのろじゃねぇっ!」


動揺を隠しきれず吐き出した声が、夜気に掻き消される。迅太は歯を食いしばり、全身の力を振り絞って走り出した。


その背を追うように、黒銀の巨体が低く唸る。


「……リオ=サグ……エル・ヴァン……トラ=ノゥス……」


まるで迅太の呟きをなぞるかのように、不気味な異国の響きが闇にこだました。兜の奥の光がぎらりと脈打ち、尻尾の先から再び青白い光がじわりと滲みはじめる。

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