第19話 犬猿の汗と矢

弥八と迅太は、迫りくる轟音を背に、枝葉を裂きながら必死に駆け抜けていた。

地を割るような重い足音が、背後から間断なく迫ってくる。振り返らずとも分かる。

あの巨大な黒銀の化け物が、狙いを定め、本気で追ってきているのだ。


「……あの野郎、走ってやがる! 迅太、囮は俺がやる。危なくなったら交代だ。とにかく時間を稼ぐ。ひたすらだ! 指笛を吹いたら俺の元に来い、いいな!」


弥八は肩で息をしながらも、振り返りざまに短く言い放った。


「……はい!」


迅太の返事は短く、それでも力強かった。

弥八に絶対の信頼を置いているからこそ、無駄な反論もためらいもない。


「さあ、隠れてろ」


弥八の言葉に、迅太はまっすぐ睨むような眼差しを返し、力強く頷いた。

そして林の奥へと姿を消すのを見届けると、弥八は腹の底から大声を張り上げた。



「おーい! 化け物、こっちだ! おせぇぞ! ぐずぐずしてたら夜が明けちまうぞ! だっはははっ!」


弥八は声を張り上げながら、わざと跳ね回るように姿を晒し、化け物の目を引きつけると、再び駆け出した。


案の定、次の瞬間には火玉が唸りを上げて飛んできた。


それをかわしながら、弥八は懲りずにまた叫んだ。


「火玉しか能がねえのか! 馬鹿の一つ覚えとはよく言ったもんだ。馬鹿ならしょうがねえな――この馬鹿うすのろが!」


吐き捨てるように叫んだ弥八は、次に走るはずの閃光を待ち構えた。

だが、闇を裂く火玉は飛んでこない。


「……あれ?」


胸の奥にざらつくような違和感が広がる。

化け物が標的を変えたのか――まさか黒霞に戻ったのか。

その想像が脳裏をよぎった瞬間、弥八の血の気が引き、慌てて振り返った。


だが、闇の奥から迫るのは、紛れもなくあの黒銀の巨体だった。

兜の奥で光る双眸は、青白く脈打ちながらぎらつき、確実に自分を狙っている。

ただ、あの火筒のような尻尾は下げられ、巨体はひたすら走りに力を傾けていた。


一歩踏みしめるごとに、大地は低くうなりを上げ、枝葉までもが震えた。


――「馬鹿の一つ覚え」で撃つのをやめやがった……まさか、こいつ、俺の言葉を理解しているのか。


背筋に冷たいものが走る。だが弥八の口角は、にたりと吊り上がった。

顎を伝う汗を拭いもせず、瞳はむしろぎらつきを増していた。


「……こりゃ、おもしれえことになるかもしれねえな」


そうつぶやくと、弥八はひとつ大きく跳ね、再び山を駆け出した。



その少し前――弥八を目掛けて容赦なく火玉を撃ち込む化け物を、木の上から半九郎が細い目を凝らして見据えていた。


手にはすでに弦を引き絞った弓。矢じりには猛毒をたっぷりと塗り込めてある。


「……目も無理とは、烈道様の言う通り、鉄の塊か。ちっ……つまらん……」


幾度となく試みた。

人であれば一息に命を奪う毒矢も、この怪物にはまるで通じぬ。矢は甲冑のごとき外殻に弾かれ、肉に触れることすらない。


毒が巡り、悶え苦しむ姿を夢想してきたが──その光景を目にすることは、叶いそうにない。


毒が効けば、自分こそがこの怪物を討ち取った男となり、佐竹義重様の目に留まり、褒美を得られる。常陸国、いや関東にその名を響かせる弓取りとして名を刻むかもしれない。


そんな甘美な妄想は、矢先の鏃に映る己の眼差しを熱くした。

孤独な男は妄想を友としやすい。


だが現実は無情である。毒矢が効かぬとあれば、残るは、ただ怪物を惑わせる矢を放つだけである。

烈道様の言葉に従うは当然ながら、毒矢が通じぬ不甲斐なさが胸をきしませた。


半九郎は悔しげに奥歯を噛みしめ、細い目を極限まで細めて、毒矢をそっと仕舞い込んだ。

無念を胸に押し殺し、ただの矢を番え(つがえ)直す。木の軋み(きしみ)と弦の張りが指先に伝わり、その頼りなさが胸を締めつける。


それでも彼は視線を逸らさず、弥八と怪物の駆け引きを凝視し続けた。


弥八は飛んでくる火玉を身をするりとかわしていた。とても同い年とは思えぬ俊敏さである。

耳を裂く轟音に鼓膜が震え、熱気が肌を焦がす。


それでも足を止めず、転げ、跳ね、木に身を隠しながら、間一髪のところで生を繋いでいた。

そして時折、挑発の言葉が絶えず吐き散らされている。


「言葉など通じぬものを……よくも叫ぶ、あの馬鹿河童め」


冷たく吐き捨てながらも、半九郎のその目はどこか柔らかさを帯びていた。


先ほどまで胸に渦巻いていたのは、怒りと意地だった。

だが、火玉をかわし続ける弥八の背を見ているうちに、その思いは次第に色を失っていく。

あの俊敏な足運び、汗に濡れた顔、命を賭した叫び。


それは、仲間と里を守ろうとする、ただひたむきな背中だった。

その姿は不思議と胸を打ち、心の奥に凝り固まっていた頑なさを、少しずつ溶かしていった。


その温もりに打たれながらも、半九郎の口から洩れたのは、やはり皮肉交じりの嘆きであった。


「……まったく、関東一の弓取りなるやもしれんかった俺が、河童の影法師とはな。

つまらん、つまらん……あぁ、つまらん」


半九郎は苦々しく呟き、己を嘲るように口端を歪めた。だが、弓を構える手はぶれることなく、確かに定まっている。


「……まあ、しかしあいつが死ぬと、更につまらんからな」


吐き捨てるような言葉の裏で、ひねくれ者の胸には、わずかながらも仲間を思う熱が芽吹いていた。

その想いは、矢羽根の震えに合わせるように静かに膨らみ、やがて彼の腕をそっと支えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る