第10話 黒銀の影(こくぎんのかげ)

黒霞の集落が“異形の影”に襲われたのは、子の刻(ねのこく)──深夜0時。

夜も更け、闇が最も深くなる刻限であった。


人々が寝静まった山里に、不意に響いた地の咆哮。地鳴りのようなその音は、火でも雷でもない。

まるで巨大な岩が空から落ち、大地を打ち砕いたような衝撃が、黒霞を揺るがした──


村人たちが家屋の囲炉裏(いろり)を囲み、ようやくまどろみに落ちたその刹那──

ゴウン……と、地の底から響くような鈍い衝撃音が、黒霞の集落を貫いた。


それは火でもなく、雷でもない。

重く、沈んだ音。まるで巨大な岩塊が空から落ち、地表に激突したかのような地鳴りだった。


わずかな間を置いて、山の方角から、土煙と共に漆黒の影が地を叩き割るようにして降臨した。


その一撃だけで、地面は抉れ(えぐれ)、大地がめくれ上がった。


「うわっ、な、なんじゃ──!」


最初に声を上げたのは、酒を煽っていた隣家の老爺であった。

しかしその声も、次の瞬間には、蒼光をまとった球状の何かが飛び出し、土煙ごと掻き消された。


老爺の身体が音もなく宙を舞い、隣家の壁に叩きつけられて崩れ落ちる。


煙の中から、月を背にして──“それ”は姿を現した。


武者か、はたまた妖の類か──見た者すらその正体を測れぬ、異形の化け物であった。


全身を黒銀の鎧に包んだその巨体は、常人の想像を超えていた。

──七尺をゆうに超える巨体。

(身の丈はおよそ二メートル三十センチ)

ただそこに立っているだけで、大気が震え、喉の奥が自然と詰まるような威圧感を放っていた。


甲冑の表には、ひび割れたような紋様が走り、そこからは青黒い光が、まるで鈍い脈動のようにじわじわと漏れ出している。

そのさまは、まるで氷と闇を混ぜたような血潮が、鉄の内側でうごめき、鎧そのものを静かに冷たく染め上げていくかのようであった。



そして、その背より伸びるは──一本の尾。

鎧と同じ金属質のそれは、蛇のごとくしなり、まるで生き物のように地をなぞっていた。

されど、その先端に備わるは、ただの尾ではない。


螺旋状に彫られた紋様の奥には、微かに蒼白き光が明滅する裂孔(れっこう)があり、

尾の先は、三枚の金属板が花の蕾(つぼみ)のごとく重なり合う、異形の構造を成していた。


その“花弁”にも似た板の隙間より、冷たき青の光が、じわりと滲み出してゆく。

先ほど土煙の中から飛び出した蒼光をまとった球状の何かは、まさしくここより放たれたものであった。

まるで蓮のように静かに、内部では光が脈を打っている。


頭部には、左右対称に立った槍の穂先のような突起。

太く、鋭く、兜と一体化したその形状は、まるで兎の耳を誇張したかのようでもある。

風に煽られるたび、鈍い金属音とともに空気を震わせ、耳の奥を軋ませた(きしませた)。

ただの風の音ではない。低周波のようなそれは、脳髄の芯まで響いてくる。


その顔──いや、“面(おもて)”は、無機質なる仮面に覆われていた。

感情の一切を排したその面には、目鼻も口も刻まれておらず、ただ滑らかな鉄のような光沢が静かに月を弾いていた。


だが、その中央──目に相当する位置より、細く蒼い光が、一筋、静かに漏れ出している。


そこには瞳など、存在しない。


視線という感覚を超えた、“認識”とも“探知”ともつかぬ圧力が、空間ごと押し潰すように広がっていた。


見上げたすべての者が、理屈ではなく直感で悟るであろう。

─あれは、人ではない。

それはただ、在る。

そこに、冷たく、無慈悲に。

言葉も、理も、通じぬもの。

願いも、情も、交わされぬもの。


ただ、破壊と災厄だけをもたらす“異形の影”──

その正体が、いま、静かに月光を裂いて姿を見せたのである。


仮面は沈黙を保ち、手足はひとつの迷いもなく動く。

その化け物は、ただ前へと、村を目がけて歩を進めていた。


そして、その足が一歩、村の土を踏みしめた瞬間──


村人たちは、何事かと続々と戸を開けた。

里の広場に佇む“黒銀の影”を目にした瞬間、空気が凍りつく。


そしてその時、黒霞の静寂は、裂けた。


「な、なんだ……あれは……!」

「逃げろ! 化け物だァ!」


黒銀の巨体に、無機質な仮面。

誰一人として言葉を継げず、声は悲鳴へと変わる。

足は縺れ(もつれ)、背を向けた者から転げ落ち、あたりは騒然となった。


子が泣き、母が抱き、男が震え、老人が口を塞ぐ。

誰もが、理屈ではなく本能で理解していた。

──これは、人の手に負える存在ではない。


それでも異形は、ひたひたと歩を進める。

ただ前へ。

そこにある命を、何の感情もなく押し潰すために。


そして、尾の先が静かに開いた。


蕾のように重なっていた三枚の金属片が、音もなく展開し、

中心に生まれた穴から、冷たい青の光がじわじわと滲み出す。


やがて、そこから青白い光弾が唸りを上げて放たれた。


爆音すら、後から追いかける。


家屋が弾け、柱がねじれ、屋根が空へと吹き飛ぶ。


静寂は破られ、黒霞の里は、たった一歩の侵入で、地獄と化した。

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