第9話 くノ一葵(あおい)
行き先は、佐竹義重が構える太田城。 山ひとつ、金砂峠を越えた先にある──だが、葵が選んだのは、あえて峠を避けた“谷の道”だった。
川辺郷の西方から南東へ流れる山田川。 その川沿いに拓かれた細道は、かつて金砂郷や水府村と呼ばれた集落を結び、農村の人々が日常の往来に使った緩やかな谷筋の道。 舗装も街灯もない闇夜の山道とはいえ、戦の風を読む葵にとっては、かえって“走れる”道だった。
「……朧、頼むよ。この谷筋なら、一刻を待たず太田へ出られる」
彼女はそう判断していた。 闇と霧の帳が満ちるなか、漆黒の駿馬・朧が地を蹴る。 その脚は枯葉を踏み、ぬかるみをはね、石の浮いた山道をいささかの迷いもなく駆け抜けていく。
この谷道は、飛脚が行き交うことも多いとされる通い道で、標高差が少なく、起伏も緩やかだった。 朧の走りに最適だった。 木立の切れ間から流れる山田川のせせらぎが、かすかに耳に届く。 斜面には、いくつかの廃れた水車小屋の影が黒く沈み、昔日の農村の気配が微かに残っている。
「風の報せ」と異名をとった葵の馬術は、もはや人馬一体の域にあった。 しなやかな体躯が鞍と一体化し、風のように身体を流す。
甲冑の下にある肉体は、しっとりとした女性の柔らかさを湛えながらも、激しい駆けに耐え得る芯の強さを秘めていた。
その胸元には、鎖帷子越し(くさびかたびらごし)にもわかる豊かさと重みがあり、奔るたびに揺れる衣の流れが、凛とした女の曲線を際立たせる。
美しい──。
だが、もはやその美しさは飾りではない。
女という生を背負い、戦場を翔ける“武”となった存在。
それが、葵というくノ一だった。
美と武の共存。
しなやかさと強靭さを併せ持つその姿は、どんな男であろうと、目を奪われずにはいられない。
だが彼女自身は、そうした視線など意に介さず、ただ静かに、前だけを見据えていた。
切り揃えられた黒髪が風に踊り、仄か(ほのか)に紅を差した唇がきりりと結ばれる。
媚びることのない瞳が、闇の先を射抜いていた。
その横顔は、鬼気と艶気が共存する──まさに“女武者”の相貌だった。。
谷間を抜けるにつれ、東の空にわずかに城影が浮かび始める。 霧の彼方に、太田の山城がその輪郭をうっすら見せた。 まだ遠い。されど、もう少し。
馬は荒い息を吐き、脚が土を激しく跳ね上げる。 それでも葵は、手綱を緩めなかった。あの城に着くまで、絶対に止まれない。
「なんで、こんな時にあんな化け物が……!」
思わず漏れた声に、自分でも驚く。 焦りか、怒りか、それとも──想いか。
「……ごめん、柊馬(しゅうま)……遅れるよ……」
今ごろ、柊馬は影見ヶ崖(かげみがけ)で、自分を待っている。 静かな谷の向こう、ふたりだけの秘密の場所で。
そこへ向かうはずだった。すぐに、迷いなく。 だが運命は、あまりに残酷だった。
思いもよらぬ出来事が、その進路を断ち切り、彼女を別の道へと引きずり込んだ。
今はまだ、行けない。 今はまだ、会えない。 けれど心は、あの場所に向かっていた。
彼との約束を守りたい。けれど、それ以上に守らねばならないものが、いまこの足を縛っている。
──烈道様、みんな……どうか、持ちこたえていて。 この走りが、少しでも間に合うように。
そんな矛盾と焦燥を抱えながら──それでも葵は、走り続けた。
風に溶けるようなその祈りは、声にもならず、ただ胸の奥を熱く締めつけていく。
だが朧は、葵の動揺も重みもいっさい気にかけることなく、ただ前だけを見て駆け続けた。 まるでその背に乗る者が、何を背負い、どこへ向かっているのかを理解しているかのように──朧は一度も迷うことなく、ひたすら走り続けた。
葵はただ、前を見据えていた。 燃え上がる黒霞の里を背に、霧に沈む太田の山城へと──その身を風のように投じてゆく。 いま、黒霞の命運を託されて走るのは、ただ一人のくノ一だった。
その名は、葵。
誰の目にも触れず、誰の記録にも残らず── けれど、たしかにあの夜、山田川の谷道を駆け抜けた者がいた。 気高く、しなやかで、そして誰よりも強く、美しい影が。
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