夢物語の終わり

 ──『バン!』



 名前を呼ばれたような気がしてハッと閉じていた目を開けた。約10年間呼ばれることのなかった名は、未だあの頃の声音で再生できる。俺は苦笑を漏らした。

 薄暗い石造りの牢屋は寒い。外の気温など関係なくひんやりと冷たい空気が漂っている。枷をはめられた手足を動かすと鎖がジャラリと音を立てた。ただ体勢を変えただけなのだが、看守が勢い良くこちらを振り返った。異変がないことを確認すると、彼は暇潰しで興じていた一人チェスに戻った。

 皮肉なことに、俺は忌々しい我が家に舞い戻って来た。ここに俺の居場所はない。あった記憶すらない。何年ぶりの王宮だろうか。もう俺の知る面影すらないように感じる。小さな小窓から空を見上げると星空が広がっていた。

 10年前のあの日。俺は彼女を裏切り、そして二度とその瞳に自分が写らないことにひどく傷つき、同時に絶望した。そんな資格はないというのに。幼い彼女の方が遥かに傷ついただろうに。なのに彼女が俺の名前を呼び、俺を求めてくれるたび、彼女が俺をその瞳に写してくれるたび、それが堪らなく幸せだった。それをまた俺は裏切る。ただ幸せに過ごしてくれたらいいと、そう思う。

 ただ、死ぬことになるのは少し想定外だった。散々悪事を働いたんだ、無理もないといえば無理もない。王子という立場をもってしてもそれは覆らない。特に親父は俺を疎ましく思っているんだ、願ったり叶ったりだろう。思い遺すことはない。馬鹿だと自分でも思うくらい馬鹿をやった。ただ唯一、彼女が自分を責めないかだけが心配だ。10も年下の子にこんな風に夢中になるなんて。俺はそっと目を閉じると、出会った頃のことを思い出した。


 *


 十数年前。俺は王宮を抜け出し、下町をぶらぶらと散策していた。もういい時間だ。暇潰しに始めた盗みのターゲットを物色するように、店やすれ違う人々を覗き込みながら歩いていた。不意に足に何かがぶつかった。下を見やると四歳くらいの小さな女の子だった。どうやら泣きながら一人で歩いていたようだ。下にまで注意を払っていなかった。どうやらぶつかってしまったらしい。



「悪い、大丈夫か?」



 しゃがみ込んで声をかけると、女の子は泣きながら頷いた。よかったと少し安堵する。



「親は?」



 そう尋ねると、女の子は一瞬下唇を噛んだ。見事なへの字だと感心してしまった。次の瞬間、女の子は堰を切ったように泣き出した。またしても感心するほど見事な泣きっぷりだ。俺もこんな風に泣いて自分の感情を表現できたら多少は楽だったろうに…。少し羨ましく思いながら少女を抱き上げた。



「ほら、泣くな。母ちゃんか父ちゃん、探しに行くぞ。」



 少女は一瞬キョトンとした後、嬉しそうに笑った。それが俺とメグの出会いだった。メグの家はお世辞にも裕福とは言えなくて、やっとのその日暮らし状態だった。



「ママー!」



 母親を見つけるとメグはいつも決まって一目散に母親に駆け寄った。



「ただいま、メグ。」



 メグを抱き上げる母親は若くて美人だった。しかしその顔に滲む疲れは隠し切れてはいなかった。そんな状態なのに二人は幸せそうだった。大した飯にもありつけず、服も継ぎ接ぎが目立つ。聞けばメグの父親は早くに病でこの世を去っていてメグの母親が唯一の稼ぎ手だった。



「バン。」



 俺に視線を向けると、メグの母親はいつもメグに向けるのと同じ笑顔を俺にも向けた。そしてそれ以上何も言わず、メグを抱いていない方の腕を広げる。こうされると俺はいつも少し気まずい。そろそろと近寄ると彼女はいつもその腕の中に俺をも閉じ込めた。



「メグのお世話、ありがとう。」



 そう言ってギュッと俺を抱き締める。俺はいつも恥ずかしさを感じながらも、その優しさと温かさが心地良くて彼女の腕に身を委ねてしまうのだった。彼女は貧しいにも関わらず、俺にも夕飯を食わせてくれた。王宮に帰れば豪華で贅沢な食事が待っているというのに、俺は食うのがやっとなメグの家にこうして厄介になっていた。

 メグの母親は決して俺から金銭を受け取ろうとはしなかった。代わりに食材を渡すと渋々受け取ってくれた。それでは足りず、俺はメグに文字の読み書き、刺繍やレース編みを教えた。たまに物語を聞かせてやると目を輝かせて喜んだ。そんなメグを見るのが嬉しくて、俺はたくさんの話をした。物語はやがて俺の経験を交えるようになっていった。

 メグの母親が俺の正体に気付いていたかは分からない。平民じゃないことには気付いていたように思う。それでも彼女はそれには触れなかったし、本当の母親のように愛情を注いでくれた。俺は正直母親のことを覚えていない。その穴をメグの母親で埋めていたことは言い逃れようのない事実だ。


 *


 受け取ってもらえなくても、いつかは受け取ってもらえるかもしれない。その暁には楽な生活を送ってほしい。そんな思いから俺の盗みはエスカレートした。やがて怪盗ミングとして名を馳せるようになり、国外に出ることも増えた。メグたちと知り合って数年後、メグが八歳、俺が18歳のある日のことだった。



「バン、次はいつ来る?」

「明日また来てやるよ。」

「うん!」



 いつものようにそんな約束を取り付けた。次の日は盗みの予定だが、夜には戻って来られる算段だ。俺にとってこうしてメグと過ごす時間はかけがえのない大切な時間だった。



「明日ね!」

「おう。今日も母ちゃん夜いねぇのか?」

「うん、お仕事!」

「そっか。ちゃんと鍵閉めて、温かくして寝ろよ。」

「うん! バンもだよ!」

「おう。じゃあな。」



 眼前に広がる星空、広がるウユの街並み、そして遠くに見える王宮の灯り。意外とこの景色も好きだ。そんなことを考えながらその日も世闇に紛れて、手に入れた骨董品店へと帰った。

 そして次の日、俺は必ず守っていたメグとの約束を初めて破った。盗みで失態を犯したのだ。生死の境を彷徨った俺が意識を取り戻したのはそれから三日後、動けるようになったのはそこからさらに一週間後。ウユに戻って来られたのはさらに一週間後だった。

 何とかメグの自宅に辿り着いて、そして事態を把握して愕然とした。俺が不在だった約半月の間にメグの母親が亡くなっていたのだ。俺はあの子を裏切ってしまった。一番必要なときに側にいられず、独りにしてしまった。どんな顔をしてメグの前に現れればいいんだろうか。笑いかければいいのか? 一緒に泣けばいいのか? 俺には分からなかった。何より今度こそ母親を失った気分だった。そして俺は逃げた。俺は弱い。

 タブルとしてウユの骨董品店に潜伏していると、よくメグが訪ねて来た。ここに行き着いたのは偶然なんだろうが、いろいろ話を聞かせすぎたせいか骨董品に囲まれていると落ち着くようだった。



「バンが来ないの。バンを知らない?」



 メグはよく泣きながら街で俺を探していた。けれど俺を知る者など下町にいるはずもなく、まるで元から存在していなかったかのように俺はメグの記憶の中だけの存在となった。


 *


 目を覚ますと小窓から光が差し込んでいた。朝日だ。いつの間にか眠っていたらしい。いよいよ今日で俺の人生も終わる。思い返してみればなかなか楽しい人生だった。自分で言うのもなんだが、境遇は不運だったと思う。親もいなく、事実上の天涯孤独だった。けれどミングとして世界中を巡るのは楽しかったし、ミナやジンという友人に恵まれた。母親らしい愛情を与えてくれる人がいた。そして何より、愛しいと、守りたいと思える存在に出逢えた。それだけで十分じゃないだろうか。



「間もなく時間だ。腹を括るんだな。」



 俺を迎えに来た兵はそう言うと暇潰し用に持って来たらしい本を広げて看守用の椅子に座った。

 メグ。お前はきっとまた泣くんだろうな。だけど大丈夫。お前は一人でも十分立派に生きてきた。ミナとジンという味方も得た。国外での経験だってある。他の男に自分を託そうとする男のことなんて忘れて、幸せになれ。

 ふとミナとジンの怒った顔が思い浮かんで笑みが溢れた。いや、ミナの方は意外と泣いているかもしれない。ジンは確実に怒っている。あいつならメグを気に入ると確信があったし、安心して任せられる。今頃、そんな俺の思惑に気付いて憤慨しているに違いない。そこまで考えて気が付いた。俺はメグのことしか考えていないらしい。どうしたって思考がメグに行き着いてしまう。だが、俺が紡いでやりたかった夢物語幸せはここで終わりだ。



「時間だ、立て。」



 兵に促されて立ち上がると鎖の音がジャラリと重く響いた。いつの間にか小窓の外はすっかり明るくなっていた。

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