初めての国外 -2

「明日の朝は早いから今日は早く寝るように。」とのミナさんの言葉に従って早々に寝巻きに着替えたはいいものの、どうにも眠れそうにない。私は部屋を出ると、共有スペースへと向かった。共有スペースの人はまばらだった。適当に腰掛けると、ボンヤリと天井を仰いだ。思っていたよりも凹んでいるようだ。完全に出鼻を挫かれた。これから先も、こんな状態なんだろうか。溜め息を吐いたその瞬間、上下逆さまなジンさんの顔が私を覗き込んで来た。



「う、わ!」



 思わず大きな声を上げてしまい、慌てて両手で口を覆う。周りを見渡すも、幸いなことにこちらを気に留める人はいないようだ。



「部屋に行ったら居なかったから、少し探した。」



 そう言いながら、私の側に腰掛けた。そしてカフェから出て来た際に手に持っていた紙袋を私に渡した。不思議に思いながら開くと、中にはサンドウィッチが入っていた。



「昼から何も食べていないだろう。食べておけ。」

「ど、どうして…。」



 そう言うと、ジンさんは少し考える素振りを見せてから言った。



「頑張っていたから、その褒美だ。」



 私は一瞬ポカンとしてしまった。この人、褒美とか言う人だったのか。とんだ偏見を抱いていたんだなと自分を諫めつつ、私はサンドウィッチに視線を落とした。



「折角なんですけど、これは頂けないです。」

「なぜだ。体は資本だぞ。」



 そう言われて、私はまたぐうの音も出ない。ミナさんもジンさんも、どこか常識からは逸脱したものを感じるのに、ふとした瞬間に正論を振りかざしてこちらの反論の余地を奪う。



「だけど、私の今日の稼ぎじゃ足りないです。貯金はまだ切り崩したくないし…。」

「……俺もミナも、お前と共に旅をすると決めた段階で、お前から金を取る気は全くない。」

「な…!」

「全部、バンへのツケだ。」



 しれっと言って退けたジンさんを見て、私はつい苦笑した。本当に三人は仲がいいんだろう。変な関係。不思議な三人だ。



「とりあえず食え。」

「じゃあ、私の出世払いにしておいてください。」



 そう言うとジンさんは頷いてくれたが、どうせ私からお金を受け取るつもりはないんだろう。いつか無理矢理にでも渡そう。私はサンドウィッチを取り出すと、中身が零れ落ちないよう慎重に齧りついた。脂の乗ったベーコンとチーズの組み合わせが絶妙だ。噛むとマスタードがジュワッと染み出してくる。正直なところ、眠れない原因の一つであった空きっ腹には堪らなく美味しい。



「美味しい。」

「ウユにはない組み合わせ方で、馴染みがないだろう。」



 そう言われて、私は頷いた。ウユのサンドウィッチは質素なものばかりで、こんなに沢山の具材を組み合わせたりしない。



「お前の商売が今日上手くいかなかったのは、そういうことだ。」

「え…?」

「ウユとは違う異国の文化。お前が普段売り物にしているレースや刺繍は、これから向かう東の国で生まれた。そしてさっきこの寝台列車に乗り込んだ国では、東の国との貿易が盛んだ。」



 そこまで言われて、ジンさんが何を言いたいのか気が付いた。



「ウユでは珍しくとも、一歩外に出てしまえばそれは珍しくもなんともないかもしれない。国外に出るというのは、そういうことだ。」



 あの国では、レースも刺繍も一般的な物だったんだ。ふと、人々の服装を思い返してみた。ウユよりも豪華で煌びやかな街に相応しい、煌びやかな服を纏った人々。レースはもちろん、刺繍が施された服を身につけた人も多かった。それも、私ですら初めて目にした金糸での刺繍だった。



「そっか…。」



 私の考えはなんて浅はかだったんだろう。



「ウユではあの商売の仕方は一般的でも、あの国では一般的じゃない。寧ろ、物乞い程度にか見えないだろう。特に若い娘が地べたに座り込んで布を売る姿はな。」

「……。」



 確かに、そもそも私のような物売りは全く居なかった。ウユでは皆屋台を出して商売をする。屋台が持てない者は、地面に布を敷いて商売をする。私は情けなくて堪らなかった。言われるまで全く気がつかなかった。言われればすぐに納得できるような事ばかりなのに。私は何を見ていたんだろう。



「お前が必要以上に凹んでいるんじゃないかと思って部屋に行った。予想通りだったようだな。」



 優しい声音でそんなことを言うものだから、ついつい涙がジワリと滲んだ。



「お前、なぜそこまでしてバンの奴に拘る。」

「……。」



 私は手に持った食べかけのサンドウィッチを眺めたまま少し考えた。なぜ…。



「バンは、私にとって……とっても、大切な人だからです。」



 一言一言噛み締めながら、言葉を紡いだ。



「ジンさんやミナさんに比べれば、一緒にいた時間は遥かに短いと思うんです。バンにも、親兄弟に対する感情と混同しているだけだって、言われちゃって。」



 私は苦笑を漏らした。違うと自分では分かるのに。言葉にするとなんとも稚拙で滑稽だ。



「私、バンに物語を聞かせてもらってたんです。」

「物語?」

「はい。バンが、異国で見聞きした話を。それがとても好きでした。私の家は母子家庭だったから…母は夜遅くまで働き詰めで、その分面倒を見てくれたのがバンだったんです。」



 バンの話をすると不思議と笑顔になれる。今まで誰にも話したことがなかったバンとの日々。それを、バンを知る人相手にしているだなんてなんだかとても不思議な気分だ。



「母は早くに死にましたが、バンが教えてくれたレース編みや刺繍、文字の読み書きや物語…、そのおかげで、今日まで生きてこれたんです。」



 私の生きる術だった。私はバンに、身も心も生かされてきたんだ。思い出すと温かい気持ちになる。バンにはたくさんの感謝がある。感謝してもしきれない。そして同時に、彼への愛も。



「そうか。」



 黙って聞いていたジンさんは、ポツリと呟くように言った。



「バンの奴が肩入れしている娘がいるのは知っていた。だがそれがどんな娘なのか、今までずっと興味が湧かなかった。」



 ジンさんは立ち上がると、私に目をくれることなく続けた。



「だが少し、興味が出てきた。」

「え…?」

「明日も早い、早く寝ろ。」



 そう言い捨てると、ジンさんは談話室を出て行った。残された私はジンさんの言葉を理解することができないまま、残りのサンドウィッチを平らげた。これからどうやってお金を稼ごう。ジンさんはああ言ったけれど、タダじゃないと言ったのもジンさんだ。せめて、食費や雑費は自分で稼がないと…。まだ旅は始まったばかりだが、課題は山積みだ。しばらくは貯金があるし、無理せず最初はジンさんに倣って街から情報を得ることから始めよう。武器であるレース編みと刺繍。だけどこの旅で得られるものがあるのであれば、貪欲に吸収していこう。



「よしっ。」



 私は気合を入れると、サンドウィッチが入っていた紙袋を畳んでゴミ箱へと放った。まずは寝よう。ジンさんが言うように体が資本だし、寝ないと頭も働かない。私は部屋へと戻ると、翌日の支度もそこそこに寝床に入った。

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