怪盗の正体

 その晩。私はそっと窓を開けると、バンの定位置だった隣の家の屋根を見つめていた。窓の縁に手をかけると、グッと窓の外に身を乗り出す。

 この10年間、一度もバンを探したことがないのかと問われれば答えはもちろん否だ。小さい頃にバンが来ないと泣きながら街中を探し回ったことがある。だがバンの行方を知る人は愚か、そもそもバンの存在を知る人すらいなかったのだ。まるでバンという人は存在しなかったかのように。もう二度と会えないのだと思った。



「っ…!」



 勢いをつけてなんとか隣の屋根に飛び移ると、恐る恐るバンを真似て屋根に腰掛けた。あの頃、バンが見ていた景色。やっとバンと同じ物を同じ目線で見られるようになったんだ。そう思うと嬉しくて、自然と笑みが溢れた。

 しばらくそうして景色を眺めていたが、夜風が冷たいので部屋に戻ることにして立ち上がった、その瞬間のことだった。ズルリと足が滑った。



「きゃ…!」



 ああ…。やっぱり、私は幼い頃のままだ。あの時はバンが助けてくれた。だけどもう、バンはいない。私は体制を立て直すことができなかった。このまま屋根から落ちれば、待つのは死だろうか。私はきつく目を瞑った。けれど覚悟した衝撃はやって来なくて、代わりにお腹に力強さを感じた。そして呆れたような、けれどどこか優しい声がした。



「お前は…10年経つのに、変わらねぇな。」



 閉じていた目をそっと開いた。瞼が持ち上がった瞬間、涙も一緒に零れた。またしても混乱する頭を抱えながら、そっと振り返った。訳が分からない。



「……バ、ン。」



 涙が止まらない。



「どう、して…。」



 何もかもが分からなくて、『どうして』というその一言に、沢山の疑問を込めた。声は間違いなくバンのものなのに、歪められたその顔はタブルさんのものだった。視覚情報と聴覚情報が一致しなくて混乱しそうになる。



「……。」



 黙りを決め込むタブルさん……いや、バンを無視して、私は彼に抱き着いた。離してしまえば、またどこかへ行ってしまうかもしれない。そんな不安を抱えながら。



「会いたかった…。」



 沢山聞きたいことがあって、文句も沢山あったのに。やっと出てきた言葉は「会いたかった」という、ただその言葉だけだった。



「っ…。」



 呻き声が聞こえて顔を上げると、彼は顔を歪めていた。ハッと気が付いて腕を緩めたそのとき、彼は私の背中に腕を回してきつく抱き締めた。今私の前にいるのはタブルさんの顔をしてはいるが、ずっと焦がれていたバンだ。彼の反応が正しいと教えてくれる。だがやはりその顔はタブルさんのもので。

 バンは少し乱暴に私の涙を拭うと私を抱え上げて器用に屋根の上を歩き、そのまま家の中に入れた。その間も、私はバンにしがみ着いて離れなかった。胸に顔を埋めて、必死にしがみつく。すると不意に、腕にふわりと髪が触れた。顔を上げると、見慣れた金髪。そして、少し目を離した隙にタブルさんであったはずのその顔は、バンのものに変わっていた。いや、記憶の中のバンの顔より多少老けただろうか。



「え、あ、え…?」



 戸惑う私に、バンは手に持ったものをヒラヒラとして見せた。…マスク?



「…ずっと、タブルさんに変装してたの?」

「…お前、気付いたんじゃねぇのか…?」



 バンは眉間に皺を寄せると、困惑したような表情をした。確信を持てなかった。いや、持ちたくなかった。思い返してみれば、あの骨董品店はたまに長期休業を取っていた。それはいつもバンが異国に出かけていたのと同じタイミング…。



「ど、して…!」



 私は拳で思い切りバンの胸を叩いた。ボロボロと零れる涙で、視界が滲む。



「今までずっと、なんで自分がバンだって言ってくれなかったの! なんでっ…! なんで10年も! 会いに来てくれなかったの!」



 叫ぶようにそう問うと、バンは困った顔をして視線を逸らした。



「私は! ずっと会いたかったのに!」



 そう叫ぶと、バンは今度は悲しそうな顔をして私を見た。



「……俺は、会いたくなかった。」

「っ…!」



 聞きたくなかったその言葉に、涙が止めどなく溢れ出す。なんで。そんな悲しそうな顔をして言うの。悲しいのは私の方なのに。



「なんでっ…。私、何か悪いことした…? 悪いところあったら、直すからっ…。」



 バンにしがみつく手に、ギュッと力を込めた。応えるように、私を抱くバンの腕にも力が込められる。ひどい男だ。会いたくなかったと言いながら、こんな抱き締め方。バンはそっと身体を離すと私の顔を覗き込んだ。



「大きくなったな。」



 両手で頬を包むと、涙を拭いながらそんなことを唐突に言う。



「可愛いだけだったのに、綺麗になった。」

「なっ…。」



 突然始まった褒めちぎりに、頬が一気に熱を持つ。



「お前ももう年頃だろ。さっさと相手を見つけて、幸せになれ。」

「……バンじゃ、ダメなの…?」

「……ダメだ。それこそもう、気付いてんだろ。」



 これだけの変装の技術。軽やかな身のこなし。不自然な異国への長期出国。背中の、傷。



「……バンが、怪盗ミングだから…?」



 そう問うと、バンは困ったように笑った。



「タブルさんがミングなんじゃないかって思ってたの。だけど、同時にタブルさんがバンなんじゃないかとも思った。」



 そうなると、バンがミングだということになる。だけど、どうしてもそこだけが結びつかなかった。だって、私の知るバンは盗みを働くような人じゃなかった。



「もう、分かったか。」

「……うん。全部、正解だった。」



 そう呟くと、バンは私の頭をクシャクシャと撫でた。



「そういう訳だ。」



 バンは優しく私の手を解くと、そっと身体を離した。



「ねぇ…。私、バンと一緒に行きたい。」

「……。」

「ウユを出るんでしょう? 私も一緒に連れて行って。」

「…ダメだ。俺は盗みを止めるつもりはない。お前、犯罪者になりたいのか?」

「……それは、嫌だけど。だけどもう…離れたくないの。顔はバレてないんでしょう? だったら盗みを止めて、一般人として一緒に生きるのはどう?」



 そう言うと、バンは困った顔をしてこちらを見た。そんな顔が見たいんじゃないのに。昔のように、笑ってほしいのに。



「私、バンが好き。」

「メグ…。」



 バンは視線を逸らした。相変わらずその表情は困ったままだ。



「お前のそれは、兄弟とか親への感情と混同したもんだ。」

「そんなことない…! 確かに私にはお母さんしかいなかったし、お母さんがいない日はよくバンに面倒を見てもらってたけど…!」



 私はギュッと拳を握り締めた。



「私は、バンのこと親とかお兄ちゃんだと思ったこと、一度もなかった!」



 バンは何も言い返さなかった。ただ困ったように俯いて、私と同じように拳を握っていた。



「…ごめんな。」



 そう呟くと、バンはどこからともなくローブを取り出し、スッポリと頭まで被った。



「待って!」



 そう叫ぶと、バンは困ったように笑った。と次の瞬間、下から大きな叫び声が聞こえた。



「ミングだ! いたぞ!!」



 驚いてそちらを見ると、今朝訪問に来た警官隊のジンさんがいた。手には剣を握っていた。バンはやれやれといった調子で、先程とはまた違った苦笑を浮かべていた。けれどその表情はどこか楽しそうにも見えた。



「しつこい奴だ…。」

「バンっ…。」

「さようならだ、メグ。もう助けれやれない。危ないことすんじゃねぇぞ。」



 そう言うと、サッと屋根から飛び降りた。



「バンっ!!」



 窓から身を乗り出してバンの行方を目で追ったけれど、彼は夜闇に紛れて綺麗にその姿を消してしまっていた。

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