少女は男を待つ

「いったぁ…。」



 指に出来た赤い膨らみをそっと口に含む。ついつい昔のことに想いを馳せて、手元の注意が散漫になってしまった。久しぶりに思い切り針で指を刺してしまったことに、少しショックを受ける。

 机の上にやりかけの刺繍を置くと、椅子から立ち上がった。窓を開けると、夜風が心地良い。遠くに王宮の明かりが見えた。少し肌寒い。そう思って、肩にかけていたショールを手繰り寄せた。



 ──『ちゃんと鍵閉めて、温かくして寝ろよ。』



 私は窓のへりに突っぷすと、片手でバンを真似てそっと自分の頭に触れた。懐かしい、優しい思い出。彼が聞かせてくれた物語は今でも私の心を豊かにし、寂しい夜には慰めてくれる。最後に彼に会ったのは、今から10年も昔のこと。顔を上げると彼がいつも腰掛けていた屋根が視界に入る。変わらない景色。だけど、私も大きくなって目線が変わった。今ならきっと、あの頃には見えなかったものが見えるに違いない。



「バン…。」



 名前を呟いてみても、応えてくれるあの優しい人はどこにもいない。生きているのか、それすらも分からない。会いたい。10年経っても変わらないその思いを胸に、今日も眠りに就く。

 翌朝、私は仕立て屋に出向いていた。



「メグ、いつもありがとう。」

「ううん。私の方こそ、いつも私の刺繍とレースを買い取ってくれてありがとう。とっても助かるの。」

「あんたの刺繍とレースは質が良いって評判なのよ。高く売れて助かるのはこっちの方さ。」



 女主人は気前よく笑うと、次もよろしくと言って店の奥に消えた。私はこうして、刺繍とレースを店に卸すことで収入を得ている。この国ではどちらもあまり馴染みのないものだから、とても良い値段で売れるのだ。



「メーグー!!」



 家に向かっていると、不意に大きな声で呼び止められた。声の方を仰ぐと、お隣の女の子が窓からこちらを見下ろしていた。



「遊んでー!」

「いいよー!」



 そう叫び返すと、彼女は顔全体を輝かせるように笑った。



「お邪魔します。」



 お隣のお母さんにそう声を掛けると、「いつも悪いね、ありがとう。」と飲み物とおやつのクッキーと一緒に返事が返ってきた。



「ねーねーメグ、今日は何のお話してくれる!?」

「何にしよっかー。」

「あれがいい、小さい島国の、王様とお姫様の!」

「はいはい。」



 早く早くと急かす彼女と椅子に腰掛けると、私は話し始めた。



「ここよりも西の方に、ルチェルナ王国っていう国があるの。そこは昔、デネブリスっていう国との争いが絶えない国だった。」

「うん!」

「ある日、ルチェルナでパーティーが開かれて、デネブリスの王様もそこに招待されたの。そこでルチェルナのお姫様と出会った王様は、お姫様に一目惚れして誘拐しちゃうの。」



 あの頃バンに聞かせてもらった話を、今は私がこうして子供たちにするようになっていた。子供たちは皆、目をキラキラさせて私の話に聞き入ってくれる。とても楽しそうに、幸せそうに。



「王様は姫様が大好きで、お城の花壇をお花でいっぱいにしたり、お喋り相手を用意したりしたの。お姫様も王様のことが大好きでね…」



 顔をキラキラさせてうっとりとする表情を見ていると、何だかこっちまで幸せな気持ちになってくる。バンも、こんな気持ちだったんだろうか。先を知っていても、そわそわとするその子が可愛くて仕方がない。だけどバンは、同じ話を二度することはなかった。それ程に彼の経験は豊かで、知識も豊富だったのだ。私の心はまだ、10年前に取り残されたままだ。



「はい、おしまい!」



 そう言ってパンッと手を叩くと、彼女は糸が切れたように背もたれにもたれた。両手を頬に添えてうっとりとする。



「メグのお話は全部素敵!」

「ありがとう。」



 八歳の彼女は、あの頃の私と同い年だ。



「またお話聞かせてね!」

「うん、また来るね。」



 そう言って部屋を出ると、廊下で彼女のお母さんに会った。



「本当にいつもありがとうね。助かるよ。」

「ううん、私も楽しいもん。」

「気になってたんだけどさ、メグの話、あのお兄ちゃんがしてた話だろ。」

「え…?」



 ドキリとした。今までに、誰かにバンの話をしたことはほとんどなかった。故に、誰かからバンの話を切り出されることもなかった。



「夜な夜なメグに会いに来ては話を聞かせてた、さ。」

「気付いて…?」

「そら毎晩家の屋根から話し声がしてたら、嫌でも気付くさ。」

「ご、ごめんなさい…。」



 バツが悪くて肩をすぼめると、お母さんは豪快に笑った。



「アタシも一緒に楽しませてもらってたからさ、気にしないでちょうだい。何だかんだあのお兄ちゃん、母親が働きに出てる夜、一人のメグが心配だったんだろうよ。」

「そう、なの…かな…。」

「そうに決まってるさ。アタシがあのお兄ちゃんなら、間違いなく心配するね。」



 そう言って目を細めると、愛おしそうに部屋で遊ぶ彼女を見た。それは紛れもなく母親の顔で。私にはもう、向けられることのない顔だった。



「私、帰りますね! まだ仕事も残ってるし。」

「あぁ、また来ておくれ。あの子も喜ぶし。」

「うん。」



 そう挨拶を交わすと、私は足早に家に帰った。そして家に帰るなりベッドに突っ伏した。



「バン…。」



 会いたい。会って話を聞きたい。ううん、今度は私の話も聞いて欲しい。バンと離れていた10年間に起こったこと。ずっと、寂しかったってこと。気付けば涙が頬を伝っていた。



「っ…。」



 母は、私が八歳のときに死んだ。女手ひとつでずっと私を育ててくれていた。そんな過労が祟ってのことだった。母が家と少しの貯えを遺してくれたし、バンが文字の読み書きや刺繍にレース編み、沢山の物語を残してくれたから、私は今日まで生きてこられた。これからも、皆が残してくれたものを大切にしながら生きてゆける。だけどどうしようもなく、寂しくて堪らなくなるときがある。

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