第16話 帝国の旗が翻るとき
朝の《キズナ牧場》には、いつものように穏やかな時間が流れていた。
小鳥型の魔獣たちが屋根の上を飛び交い、草食系の獣たちがのんびりと食堂前の草をむしゃむしゃと食べている。食堂の奥からは、バルゴの「肉、焼けたぞー!」という豪快な声が響き渡っていた。
「お、おかわりください! 今日の鹿ステーキ、最高でした!」
「こらルーディ、おかわりは魔力トレーニング終わってから!」
そんなにぎやかな朝の中──
「……なんか、変だ」
屋根の上に立つティムが、目を細めて空を見上げていた。
王都方面の空に、灰色の雲がもやのように広がっていた。
それは天候の異変ではなかった。魔力に敏感なティムの感覚が、そこに“気配”を感じていた。
次の瞬間、空から羽音が近づいてくる。
「ティム! 斥候から急報です!」
風切羽の音とともに降り立ったのは、ギルド所属の飛行魔獣・フェルとその使い手。
彼の顔は青ざめていた。
「報告します! 王都周辺の山間部に、魔獣の大集団が現れました! 隊列を組み、明らかに統制された動きです!」
「まさか……暴走集団じゃないってこと?」
ティムが問い返すと、フェル使いはこくりと頷いた。
「はい。それだけではありません。……彼らの先頭にいた旗が、“帝国の紋章”でした」
場が凍りついた。
アルがぴたりと動きを止める。
「……帝国の、旗……?」
後ろからやってきたミリアが、息をのんで立ち止まる。
「まさか、“魔帝国”が復活を……?」
ティムは頭を整理する暇もなく、次の言葉を発した。
「王国はどうしてる?」
「既に警戒態勢を開始。近衛騎士団が王都正門に展開中です。ですが、相手の動きは今のところ交戦意志を見せていません。“使者を寄越したい”と伝えてきたようです」
「話し合いの余地があるってことか……!」
バルゴが腕を組んで、険しい顔を見せた。
「だけど相手は、かつての“魔獣たちの王国”。今の王国が、まともに会談を開いてくれるとは思えねぇな……」
ティムは静かにうなずき、そしてアルに目を向けた。
「アル。どう思う?」
「……この気配……知ってる。いや、忘れてたはずの“何か”が、ざわめいてる」
アルが空の一点をじっと睨む。
「まるで、俺の名前を呼んでるみたいに……」
ティムは拳を握った。
再び訪れようとしている“帝国”の影。それはアルの過去であり、ティムたちの未来を揺るがすものになるかもしれない。
けれど──
「話せるなら、話してみたい。“かつての帝国”が、どんな想いで動いているのか」
ティムの瞳に、恐れはなかった。
あるのは、ただひとつ──“共に歩ける未来”を、探す意志だった。
* * *
王都の中心にそびえる政庁塔、その最上階に位置する円形の会議場。
白亜の壁に囲まれたその空間には、緊迫した空気が充満していた。
「本当に……“魔帝国”と名乗ったのか?」
重々しい沈黙を破ったのは、王国軍総司令であるガルド将軍だった。灰色の髭を撫でながら、彼は目の前の文書を睨みつける。
「はい、これがその文面です。魔獣軍の斥候から回収されました」
報告に立ったのは、情報局の若き官吏。彼の手にある羊皮紙には、確かにこう記されていた。
——我ら、かつての王の旗のもとに集いし者たち。
今ここに、魔帝国の再興を宣言する——
場内にざわめきが広がる。魔帝国。かつて人間との共存を拒み、魔獣たちだけの統治を目指した国。その名が再び持ち出されたことで、古傷のような警戒がにわかに蘇った。
「たしか、最後の魔帝が討たれたのは十五年前だったか……」
「だが、当時の残党は壊滅したはずだ」
「模倣者か、あるいは……“血を継ぐ者”か?」
耳を塞ぎたくなるような推測の数々が飛び交う中、ティムは一人、無言で座っていた。
アル=ノクス。
自分の相棒であり、いつも隣で笑ってくれる魔獣が——まさか、“魔帝”などという存在と関係しているのではないか。
「まさか……アルが、その“王”だなんてことは……」
ぽつりと漏らしたその言葉に、隣に座っていたミリアが静かに目を向ける。
「信じてるんでしょ、あの子のこと」
「……うん」
だが、ティムの返事はわずかに震えていた。
あの日、ギルドの屋上でアルが見せた不安げな表情が脳裏をよぎる。
“自分が何者なのか分からない”と語った声が、いまも耳に残っている。
「とにかく、今は事実を掴むことが先決だ」
会議場の空気が再び引き締まる。王国は使者の派遣を検討し、軍の一部を東部国境へ移動させることを決定した。
ティムたちもまた、密かに行動を開始することになる。
——その夜。
「……ぅ……っ、やめ……ろ……!」
ティムの宿の一室。
アルはうなされながら、うずくまっていた。
その背には薄く、黒い魔力の膜が波紋のように広がっていた。
ティムが手を伸ばそうとした瞬間、アルの瞳がぱちりと開かれた。
「……“帝”……」
その一言は、まるで何かを思い出したかのような重さを持っていた——。
* * *
その夜、アルは静かに眠っていた──はずだった。
だが、まぶたの裏で広がるのは、見たことのない風景。
黒曜石のように輝く玉座の間。天井は高く、巨大な魔獣の壁画が四方を取り囲む。荘厳な香の香り、規律正しく並ぶ魔獣の兵士たち──その中央に、己が座していた。
玉座の上。
王の座に、己がいる。
『アル=ノクス様、ご命令を』
記憶の中で、無数の魔獣たちが頭を垂れる。
鋼の牙を持つ狼たち。空を裂く飛竜たち。目に見えぬ影をまとう幻獣たち……そのすべてが、アルの名のもとに集い、誓いを立てていた。
その姿はまさに“帝”。
魔獣たちの王、“魔帝アル=ノクス”。
だが──その顔には、微かな寂しさが浮かんでいた。
『忠誠か。だが……それは、心からのものだったのか?』
自分に従う魔獣たちの瞳が、ふと曇ったように見える。
誰かに仕えるとは、そういうことなのか?
王とは、命じ、従わせるだけの存在なのか?
その疑問が心を満たした瞬間、視界が急激に歪む。
──ズズズッ……!
玉座の間が崩れ、周囲の魔獣たちが影に飲まれていく。
聞こえるのは、叫び声。断末魔。嘆きの咆哮。
『帝に逆らった……罰だ……』
誰かの声が、耳に焼き付く。
その瞬間、アルは目を見開いた。
* * *
「はっ……!」
ベッドから飛び起きたアルの額には、玉のような汗がにじんでいた。
体が熱い。胸の奥がざわついて、今も夢の断片が脳裏にこびりついている。
「今の……夢? いや、あれは……記憶、なのか……?」
呟いた声に応えるように、外から風が吹き込んできた。
その風には、どこか懐かしい気配が混じっていた。
* * *
夜のギルド本部、屋上に佇む影があった。
ティムは、そんなアルの姿を見つけて駆け寄った。
「アル、大丈夫!? さっき、すごくうなされてたけど……」
アルは、ティムをじっと見つめる。
その瞳には、いつもの無邪気さではなく、何かを決意した色が宿っていた。
「ティム……俺、思い出したんだ。ほんの少しだけど……昔の自分を」
「えっ……!」
「俺は、かつて魔獣たちの王、“魔帝アル=ノクス”と呼ばれていた……気がする」
ティムは言葉を失う。
だが、次の瞬間には、まっすぐにアルの前に立っていた。
「それでも、君は今、“アル”だ。俺の仲間で、俺の大事な相棒。違う?」
アルの目が、かすかに揺れる。
そして──静かにうなずいた。
「……ああ。ありがとな、ティム。でも……俺にしか止められない奴らが、今、動き出してる気がする」
その声は、夜風に乗って遠くへと消えていった。
その瞳には、迷いも、決意も、すべてが映っていた。
* * *
朝の陽射しが、湿った草原に淡く差し込んでいた。
王都と帝国軍の境界に設けられた野営地。その一角で、ティムたちは臨時の交渉会議に臨もうとしていた。
仮設の天幕の下には、粗末な木の机と椅子。そしてその向かいには、鋭い気配を放つ四つの影。
四獣将――かつて魔帝アル=ノクスに仕えていた、魔帝国軍の柱たち。
「久しいな、陛下……いや、今は“ティムの契約獣”とでも呼ぶべきか?」
開口一番、黒い狼型の獣が吐き捨てるように言った。
アルの肩がわずかに揺れる。
「俺はもう、命令する王じゃない。……共に生きる道を探してる。ただ、それだけだ」
「ふん……“人間と共に”? 我らを捨てておきながら、今さら何を語る」
怒気を帯びた声で吼えるのは、炎の鬣を持つ獅子型の魔獣だった。
その隣では、静かに冷気をまとった蛇型と、目を細めた鷲型の獣が、ただアルを睨んでいる。
ティムは、息を飲んでそのやりとりを見守っていた。
アルの過去――それはまだ、霧の中だ。
けれど、こうして集った四獣将の姿が、それが“真実”である可能性を裏付けている。
「和平の話など、笑わせるな。お前が本当に“王”であるならば、我らに命じてみせろ」
四獣将のひとり、蛇型の獣が低く囁く。
「だがそれができないなら──」
「ならば、我らを納得させろ。“今の王”としての姿を──」
最後に言い放ったのは、鷲型の獣だった。
その声は鋭く、しかしどこか……試すような響きがあった。
アルはゆっくりと立ち上がる。
「……お前たちに会えて、嬉しい。憎まれても、忘れられていなかったことが……ただ、それだけで」
その瞳は、震えていた。
だがその奥に宿るのは、覚悟の光だった。
「俺は、“王”じゃない。“仲間”と呼べる未来を……この子たちと、作りたいんだ」
ティムは、アルの隣に並ぶ。
「アルがどんな存在だったとしても。今、俺の隣にいる彼は、俺にとって……大切な“相棒”です」
空に雲がかかり、一瞬、陽射しが翳る。
そのとき、鷲型の獣が羽を広げて言った。
「ならば、見せてもらおう。“今の王”としての姿を。我ら四獣将を、納得させる戦いを──」
ティムとアルが見つめ合う。
「やるか、アル」
「……ああ。“今の俺”を、ちゃんと見せてやる」
決戦の火蓋が、静かに落とされた。
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