オーバーキル
雲雀さんは目に見える範囲内なら迷わない。端まで見渡せる一部屋の中で迷うことはない。けれど、角が厄介なのだ。角があると途端に迷う。目的地は角の奥だったので、私は角の近くで壁際に凭れて待機する。
「何回も断ってますよね!いい加減にしてください!」
女性の甲高い声に耳を持っていかれる。洗面所のさらに奥の筋にある従業員入口前に視線を送る。壁際に追い詰められた女性が男性に道を塞がれていた。
「またまた~これからオレのこと好きになっちゃうって、ね?」
人気の少ない従業員入口前ではこういうことが起こる。都会の大人のお店の雰囲気に似合わない下衆男の所業である。ナンパは失敗したら潔く引け。
「仕方ないな、もう」
私は雲雀さんを待つ任務を置いて、彼らが揉めている薄暗い従業員入口前へと足を進めた。この隙に雲雀さんが通り過ぎる可能性もある。だが、女性の安全には変えられない。私はナンパ男の背後に立って、女性に向かって声をかけた。
「もし勘違いだったら嫌なんで、助けて欲しかったらヘルプって言ってください」
私の声に反応した女性はすぐにハッキリ言った。
「ヘルプです!もうこのどうしようもない人、どうにかして!」
私は彼女のその言葉を聞いて、気がついた。雲雀さんに寄せられるヘルプ業務は、成仏課職員からの助けて、ではないのか。
悪霊になりたくないけど、ならざるを得ない幽霊からのヘルプ。
未練を捨てられない、もうどうしようもない私を──助けて。という意味だったのか。
だとしたら、雲雀さんがヘルプ業務をする理由がわかる。だって雲雀さんは、幽霊に優しいから。幽霊を撃ち消して、舌打ちが止まらないくらい嫌な想いをしたとしても。悪霊堕ちして苦しむ幽霊を放っておけないのだ。
私の動きがふと止まったので、ナンパ男が挑戦的な声を出した。
「あ?なんだお前ジャマすんなよ」
上司に倣って、このどうしようもない男にヘルプしてやることにした。この男の、これからのために教えてやる。
「めちゃくちゃ嫌われてるのわからないところが、モテないんですよ」
「ハァ?」
私がため息をつくと、ナンパ男は片眉を持ち上げて不機嫌そうな声を出した。だが、全く威圧感がない。雲雀さんを毎日見ていると世の男の大半は可愛い部類だ。男が私の方に身体を向けたので、腕を取って捻ってやる。
「アダダダ!」
「お姉さん、行ってください。あとは私がしますんで」
腕を捻られたナンパ失敗男は暴れていたが、私は膝を使って男を壁にぐいと軽々押しつけた。彼の腕を背中に回してさらに捻り上げる。
「イテェっての!ヤメロ!」
「あ、ありがとうございます!」
「離せよ!」
女性は頭を下げて私の横を通り過ぎた。女性が退避するのを確認してから、手を離してやる。このくらいにしておいてあげよう。
「何してくれんだお前!逃がしたじゃねぇか!代わりにお前が相手になるんだろうな!デカ女!」
せっかく逃がしてあげたというのに、ナンパ男は性懲りもなく私を壁際に追い込んで背中をつけさせる。今どきデカ女なんて久々に言われたが、そういえば私は大きい方だった。雲雀さんの隣にいると私のサイズ感を忘れてしまう。ナンパ男は私と同じくらいの背で、私の顔の横に手を置いて通せんぼの壁ドンだ。無理がある。
すぐに次の獲物を見つけようとするハングリー精神は買うが、ほとほと女をうんざりさせる男である。私が手を取って投げようとすると、男がなぜか視界から勢いよく吹っ飛んだ。
「グッ」
ふと横を見ると、雲雀さんの長い足が蹴り上がった格好。男は地に伏していて、怯えた目で蹴られた横っ腹を手で押さえていた。横腹に蹴りを入れられたようだ。
雲雀さんがこつこつと恐怖の足音を鳴らして男に向かって行く。腰が抜けたまま尻で後ろに下がった男は、壁際に追いやられた。
「ヒィ……ッ」
足癖の悪い雲雀さんの靴底が、震える男の額にごりっと押しつけられる。顔に蹴り入れないだけ優しいのだろう。地を這うドスの効いた声が彼の腹を刺した。
「俺のモノに手出してんじゃねぇよ、クソが」
男は震えた声でサーセンと口にした。この人、一日に何人にサーセンと言わせたら気が済むのだろう。ちなみに雲雀さんは俺の部下と書いて、俺のモノと読むと初日に説明を受けている。
しかし部下を守る、というより縄張り意識が強い猛獣感である。私は雲雀さんに向かって息をついた。
「雲雀さん、こういうのオーバーキルって言うんですよ?雲雀さんなら睨むだけで勝ちなんですから」
「……帰るぞ、野々香」
「ウッス、雲雀さん」
震える腰抜け男を置いて、私たちも店を出る。階段を下りながら私は雲雀さんに笑いかけた。
「私、あれくらい一人でやれますよ?」
「うるせぇな、バーカ」
「あ、まだ酔ってたんですね!」
私は心底おかしくて笑いながら、雲雀さんを家まで送ることにした。
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