額の傷
目黒川沿いを歩いて幽霊館を通り過ぎて、雲雀さんのミニマムな一軒家に到着した。途中から雲雀さんは千鳥足だったので、じわじわ酔いが回るタイプのようだ。
「水」
雲雀さんがドアの鍵を開けつつ、背後に控えていた私に言う。
「え、私に水を入れろって言うんですか?!鍵を開けられるんだから水も入れられますよね!」
「俺のモノが口答えすんじゃねぇよ」
雲雀さんがドアを開け放って家に入って行くので、私は口を尖らせながら玄関に入った。犬飼先輩マニュアルにもたまに家に上がらされると書いてあった。これは寝るまでお世話コースらしい。
雲雀さんは電気も点けずに靴を脱ぎ散らかして、広いリビングの端っこに置いたベッドへ向かって行った。途中で上着も脱ぎ散らかす。
大きな窓から入る月明かりで浮かび上がる雲雀さんの腹筋、胸筋が逞しい素肌。完全なセクハラだが、ヘルプ案件で疲れていると思えば何も言えない。
上半身裸になった雲雀さんはベッドにぼふっと倒れ込んでしまった。私はキッチンに向かう。ざっと見回せば大体どこに何があるのかわかる小さな家。雲雀さんが家の中で迷わないためのシンプルな1LDKだ。
掃除に細かい雲雀さんの部屋は小綺麗に整っている。脱いだ服は明日の朝、滞りなく片づけられるだろう。
私はキッチンでコップに水を入れて、ベッドに突っ伏す雲雀さんに運んだ。
「はい、お水です!」
アイアンの無機質なベッドに寝転んだ雲雀さんが顔を上げる。
「お前、まだいたのか」
「雲雀さんが水って言ったんですよ?!自由ですね!」
雲雀さんは私の声など聞こえないのか、水をごくごく飲み干して喉仏を上下させる。喉仏とともに喉の黒い階段デザインのタトゥーが動く。
私はフローリングにぺたんと座り込んで、その重なり合う階段タトゥーを眺めた。
「そのタトゥーってすごい雲雀さんっぽいですよね。階段で迷っちゃう感じ」
雲雀さんが空のコップを私につき返す。
「これもピアスと同じで、逆だ。これがあるから……迷うんだよ」
雲雀さんの迷子体質は霊害だ。タトゥーが刻まれているせいで迷うということは、そのタトゥーを入れたのは雲雀さん自身ではなく、悪霊か。
「霊害はクソ」
ピアスもタトゥーもファッションではないのだとすると、雲雀さんの見た目のガラの悪さはほぼ霊に関することで。仕方ないということになる。口は元から悪そうだが。
「……意外と、苦労してるんですね」
私がきゅっと口を結んでタトゥーを眺め続けていると、雲雀さんの大きな手がふと持ち上がって私の短い前髪に触れた。雲雀さんはベッドに寝転んだまま、指で私の前髪をかき分ける。
「野々香。この傷跡、どうした」
雲雀さんの声は夜に馴染んで妙に艶っぽい。私の額の端には古い傷跡がある。なぜ前髪で隠れている場所にある傷なんて知っているのか。私は少し緊張しながら答えた。
「小さい頃の傷で、よく覚えてないんですけど。花瓶に突っ込んだとかなんとか母は言ってます」
「お前、本当に何にも覚えてねぇんだな……傷も、俺のことも」
「雲雀さんのこと?」
月明かりだけの頼りない光の部屋で、雲雀さんの眠そうな視線には色っぽい熱がある。その熱が伝わるのか、つい腰がそわついてしまう。私の声が喉に張りついて上ずった。
「どこかで会いました?」
「封鎖村に決まってんだろ」
私と雲雀さんは出身地が同じだ。狭い村だったと聞いている。たしかに、出会っていてもおかしくはない。
「私が封鎖村にいたのって八歳くらいだったんで、記憶がすごく曖昧なんですよね。でも八歳だったら覚えてないとか普通じゃないですか?」
「ありえねぇ」
「何がですか?」
「お前が、俺のこと忘れるなんて……ありえねぇよ」
ものすごい自信だ。雲雀さんは指先で私の額の傷跡を柔くなぞる。思わずビクついた身体を無視して、私はありそうな予想を告げた。
「私ってもしかして雲雀さんにめちゃくちゃイジめられていて、身体が拒否して記憶消してるとかですか」
「あぁ?」
あ、これ本気で不機嫌な音だった。私はサーセンと短く言ってから身を固くする。傷に触れる指先は離れなくて、いつまでこうしていればいいのか業が続く。
雲雀さんが俺を忘れるわけがないとまで言い張る関係とは、相当仲良しだったとか。雲雀さんと仲良しとか想像がつかないが。チッと舌打ちが鳴る。
「お前の記憶がないのも、霊害だな」
「え、そうなんですか」
「……クソが」
あれ、今の聞いたことがあった。霊害、クソが、チッ。初めて事務所で雲雀さんに会った時と同じだ。あの時は私に対する敵意だと思ったが、あれは私ではなく霊害にイラついていたのか。今やっと理解した。
封鎖村を出て、ひたすら元気に過ごしてきたつもりだった。だが、私にも霊害の影響があったらしい。自分で気づかないのも困ったものだ。
雲雀さんが上司になってしばらく経つ。なのに昔から私のことを知っているなんて言わなかった。しかも酔ったこのタイミングで言うってことは、なかなか言い出せなかった感じもする。
「もしかして私に忘れられて、ショックだったりしたんですか」
雲雀さんの眉間に深い皺が寄った。言ってはいけないことを言ったかもしれないと思って口を覆う。だが言葉は帰らない。やっと雲雀さんの指が傷跡から離れたが、今度は額にバチンと衝撃が走る。
「イダイ!」
私は額を両手で押さえて叫んだ。雲雀さんの強烈なデコピンが炸裂して私の額が弾けそうだった。雲雀さんはベッドのシーツを体にかけて私に背を向けて寝返りした。
「早く帰れ、バーカ」
「自由過ぎますよ?!お疲れさまでした!よく休んでくださいね!おやすみなさい!」
言いたいことだけ言って拗ねてデコピンにバーカとか完全に子どもだ。私は自由の限りを尽くす上司に挨拶だけはきちんとして、やっと長い一日を終えた。
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