処刑人

 扉の向こうで異常なことが起こっているのが即座に理解できた。美しく伸びた背筋の雲雀さんが軽く息をついてからドアを開けた。


 私はドアの向こうに広がる光景に目を瞠った。絢爛な大理石ホールの中央、目黒区幽霊館と同じ形の白い扉の成仏ゲートの前で、女性が頭を抱えて床に両膝をついていた。


「イヤやややや!ごんなごどになるのいギャぁ!デェ!」


 女性の幽霊の声が濁り、輪郭が漆黒に染まり始める。彼女の顔が口も目も鼻もぐにゃりと混ざりあい、歪んだ。肌に感じる温度はぐっと下がり、不穏が押し寄せるように闇の気配が広がっていく。


「ど、どういうことですか」

「悪霊堕ちだ」


 雲雀さんの短い声。これが49日以内に成仏できなかった幽霊の成れの果て、悪霊か。


 私は彼女の変貌から目が離せない。彼女の身体すべてが漆黒に染まり、黒ののっぺらぼうになった彼女の顔。漆黒の肉の皮が破けて、溶けて、ずるりと落ちる。濁った血に漬け込んだような赤黒い頭蓋骨がむき出しになった。


 まるで、悪意が今ここに、形を成して生まれたようだ。


 彼女の身体は闇色の靄となり、辺りには腐ったような嫌な匂いが漂い始めた。


「デェゆゆユルザナ」


 言葉をなさない音に怒りと憎悪が滲み出す。かすかなすすり泣きのような低いうめき声が次の瞬間、怨嗟の叫びに変容した。


「イノゆるざないのぉぼお!!」


 許さないと、聞こえた。濁った未練が腐った果てに、彼女はおぞましい変貌を遂げた。


 私はつい構えを取る。幽霊は元人間。悪霊も元人間のはずだが、彼女とは仲良くできそうにないと本能が告げていた。


「野々香、これも俺の仕事だ」


 雲雀さんがドアの向こうへ歩き出す。雲雀さんはポケットから小さなシルバーの拳銃を取り出してカチャリと音を立てる。拳銃なんて、そんなもの持って歩くなんて信じられない。


 だが、異形の髑髏となった彼女の前で、その武装は理にかなっているように感じてしまう。それくらい彼女の姿は脅威だ。


「ユググヅザナイダのお!」


 鼻がもげるような匂いが噴き出し、彼女の声は私の脳の芯をぐらつかせた。雲雀さんは面のように無表情で、彼女の頭に銃を突きつける。


 彼女は顎が壊れたかのように歯をカチカチカチと高速に音を鳴らして、カックンと頭蓋骨を90度傾けた。


「ゆぐザナナナイの?」


 まさか、と思った次の瞬間、大理石ホールに銃声が響き渡った。ガヅンと耳と腹を劈く音。耳も腹もじくじく痛かった。拳銃を向けられた彼女の頭は塵のように吹き飛んで、びちゃびちゃと真っ白な大理石ホールの汚れになった。


 処刑人と呼ばれる意味。


 見てしまえば即、理解した。


 雲雀さんは幽霊成仏課の業務として幽霊の成仏に励む裏で、悪霊堕ちした幽霊を始末する役も担っていた。私は目の前の光景に飲まれて、息を忘れた。


 なんて惨い。怖くて辛くて息苦しくて、泣きたくなった。雲雀さんが大理石の汚れを見つめて舌打ちした。舌打ちがホールに溶けていく。私は歯をギュっと強く食いしばった。


 泣きたいのはたぶん、雲雀さんだから。


 ヘルプの意味もわかった。他区で悪霊堕ちの可能性が濃厚になった場合に、雲雀さんに寄せられる処刑依頼のことだ。


 だからヘルプが来たとき、課のみんなが重苦しい雰囲気になったのだ。嫌な、仕事だから。雲雀さんはずっと不機嫌だった。


 雲雀さんこれを、やりたくなかったのは明白だ。


 飛び散った黒い汚れを見つめる雲雀さんの低い声が落ちる。


「よく……頑張ったな」


 雲雀さんは幽霊との手向けに向ける言葉を残し、拳銃を仕舞ってから、私が立ち尽くす扉の前に戻ってきた。雲雀さんの頬に、黒い汚れがついているのが居たたまれなかった。


「行くぞ、野々香」

「……ウッス、雲雀さん」


 雲雀さんが私の横をすり抜けて大理石の大階段を下り始める。カツンカツンと大理石の固い音を鳴らして階段を下りると、下から誰かが上ってきた。


「お疲れさまでした!」


 階下から静かな館内に不釣り合いの明快な声が聞こえた。初めて港区幽霊館の職員に会えた。金髪の短髪に三白眼のヤンキー君だ。ガチモンのヤクザ顔である雲雀さんを見慣れている私には、彼が新米三下に見える。


 ヤンキー君はたたたっと大理石の階段を上り、雲雀さんに握手を求める手を差し出した。彼の茶色の瞳は憧れを宿しているように感じた。


「俺、寺沢です!噂の雲雀さんに会えるの楽しみにしてました!今回は力及ばずな結果になってしまったのですが、しつこい未練にも困ったもんですよね」


 ヤンキー寺沢がへらっと笑うと、ひゅっと風。私の短い前髪が揺れた。


 雲雀さんの長い足が振り上がっていて、すでに役目を終えていた。


「いっダ!」


 ダダンと大きな音を立てて寺沢が階段の踊り場まで転がり落ちてしまった。私は見た。雲雀さんが彼を蹴り落とした。


 雲雀さんが階段をぴょんと跳ね下りて踊り場に降臨し、寝転がるヤンキー寺沢の腹に馬乗り、胸倉を掴む。そこまでなら可愛いスキンシップかなと思えた。しかし、雲雀さんは先ほど悪霊を吹っ飛ばした小さな拳銃を寺沢の顎に突きつけた。私は思わず叫ぶ。


「雲雀さん!その人は人間ですよ!」

「ヘラヘラすんじゃねぇよ」


 私は雲雀さんをヤンキー君からひっぺがそうと、後ろから羽交い絞めにする。私は柔道家。締め技だって得意だ。だが雲雀さんはビクともしない。体幹どうなってんのこの人!


「雲雀さんやめてー!それだけはマジでダメだからー!」

「ヒッ……!」


 寺沢は蒼白になってかくかく小さく震えて、目を瞑って拳銃の脅威にぎゅうと目を瞑って怯えた。彼は命からがらサーセンと謝罪する。だが、彼は不機嫌な雲雀さんの逆鱗に触れてしまった。


 聞く耳を持たない雲雀さんは寺沢の胸倉を掴み上げ、鼻先を合わせるほど近くまで持ち上げて睨みつけた。雲雀さんの地獄よりさらに低い声が彼を抉る。


「消せない未練を持って死んで。死んでもまた銃を突きつけられて痛みの中で消えた奴と……お前も同じようにしてやろうか?」


 雲雀さんの言葉は痛かった。寺沢は雲雀さんが何に怒ったのか察したようで、もう一度すみませんでしたと擦れた息のような声で言った。


「謝って済むなら、しつこい未練なんて生まれねぇよな?お前で証明しようぜ」

「ヒッ……ヒッ!」

「雲雀さんもう勘弁してぇー!」


 雲雀さんの突きつける銃口が寺沢の顎にぐいぐい突き刺さる。私は雲雀さんに抱きつき引っ張ったが動きもしない。雲雀さんの拳銃がカチャリと生々しい音を立てる。


「雲雀さん!申し訳ございません!」


 階下から女性の謝罪が飛んだ。黒のパンツスーツの女性は前髪も全部ひとまとめに括った長い髪を揺らして駆け上がってきた。四十代くらいに見える彼女は雲雀さんが寺沢を脅す真ん前で深く頭を下げた。


「今回はお手数おかけした上に、彼はまだ歴が浅くて……私の指導不足です。気に障ることをしたようで、謝る言葉もありません」


 雲雀さんが拳銃を突きつけるこの状況を見て、制止するより先に謝って宥めようとする彼女はすごい判断力の持ち主だ。雲雀さんはちらりと彼女を見たが、無情にもガチンと引き金を引いた。


「ヒィイ!!」


 ガヅンとまたコワイ音が鳴るかと思って覚悟したが、大きな音はなかった。銃には弾が入ってなかったみたいだ。そういえば、悪霊を撃つのは普通の弾ではないはずっだ。悪霊用があるのが道理だ。雲雀さんの制裁パフォーマンスに見事に踊らされてしまった。


 しかし撃たれた本人はショックで意識が吹っ飛んだ。雲雀さんは寺沢の腹の上から立ち上がり、また階段を下り始める。まだ頭を下げたままの彼女の横を通り過ぎた。


「次はねぇぞ、鈴乃。部下には首輪つけとけ」

「ハイ!この斎宮鈴乃、御恩は忘れません!ご指導、ありがとうございました!」


 彼女は誰かわからなかったが、うちの課長と同じ苗字。年頃的には娘さんと思ってもいいような気がした。あの凶行を指導と受け取れるなんて、雲雀さんに深い信頼があるようだ。


 雲雀さんとうちの課長は古い知り合いだと聞いた。もしかすると、鈴乃さんもそうなのだろうか。鈴乃さんは一度も顔を上げずに頭を下げ続けた。


 正面玄関を出ると、日が暮れて夜が訪れていた。初めて来た港区幽霊館は散々だった。雲雀さんが長い足の赴くまま歩いて行く。どこに行く気かわからないが、とりあえず気が落ち着くまで私も雲雀さんの隣を歩くことにした。

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