SF短編
識織しの木
せかいが消えた日
今立っているのがどこの国のどこの街か、男にはわからなかった。
母国を離れて旅を始めてもう何年になるのか、それとも何十年になるのか、自分でも思い出せない。これまで幾度となく国境を越え、歩き続けてきた。最後に国境を超えたのは、いつだっただろう。一昨日のような気がするし、一週間前のような気もする。いや、もしかしたら半年前だったかもしれない。
とにかく長い間、旅を続けているのだ。もう自分がどこの国にいるのかなんて気にならなくなっていた。
名前はわからない、でも歩き続けさえすれば辿り着けるその土地で、男はひとりの老人に声をかけられた。
老人の言葉は、男には理解できなかった。しかし、老人が男の肩を叩き、明らかにこちらに向かって話しているので、自分に用があるのだとわかった。
「私には、あなたの言葉がわかりません。英語は話せますか?」
男は英語で話した。
老人は少しの間沈黙し、それからまた、男には理解できない言語で話し出した。どうやら英語は使えないらしい。男は流れていく、本当は意味が詰まっているはずなのに何も感じられない音の連続を、ぼんやりとただ聞いていた。
老人の話は長かった。意味が通じていないとわかっているだろうに、熱心に話し続けた。
老人の顔には皺が深く刻まれ、皮膚はたるみ、しみだらけだった。目は落ち窪んでいるが、瞳の輝きだけは異様なまでにいきいきとしていて、男にはそれが奇妙に思われた。また話し方も淀みなく、言葉に詰まっている様子がない。何かを思い出しながら話している風ではないのだ。「あー」とか、「えーと」なんていう間がまったくない。言語が理解できなくても、それだけは感じ取ることができた。
この不思議な老人は、男に返事を期待したり、何かを問いかけたりはしなかった。男はただそこに立っているだけで、相槌のひとつも打たなかったが、老人はそんなことには構わなかった。
やがて音が止まったことに、男が気付いた。
老人は口を閉じ、瞳の輝きはどこかへ消えていた。焦点の合っていない危うい瞳で、男を捉えた。ポケットの中から何かを取り出し、男に差し出す。
無言で差し出されたそれを、男は好奇心から受け取った。すると老人は頷いて、男に背を向けて歩き出す。
男は受け取った物体を見た。それは深緑色の石だった。
とてもきれいな石だった。
老人がなぜこの石をくれたのか男にはわからなかったが、そんなことはどうでもよくなるくらいには美しい石だった。世界中のどこを探しても、こんな石は見つからない。こんなに素晴らしい石はふたつとない。どんな宝石も、この石の前では見劣りすることだろう。
男は石を持って、旅をつづけた。
あるとき、山へ入っていった。頂上から街を見たいと思ったのだ。
しかし、その山を登ることは容易ではなかった。あちらこちらに障害物があり、思うように進めないのだ。大きな岩があったので迂回すると、その先では大樹が行く手を阻んでいる、という具合に。
大樹を避けて進むと、また別の巨岩が現れた。
「この岩がなかったらなぁ」と、男は何の気なしに呟いた。
すると、驚くべきことが起こった。
岩が消えてしまったのだ。
「なんだって!?」
男は今しがた自分の視覚で捉えた現象が信じられず、岩があったところを行ったり来たりした。たしかにあったんだ。錯覚なんかじゃない。いや、しかし。ああ、どういうことだ。
不思議に思いながらも、男は進んだ。進みながら、やっぱり岩なんかなかったんじゃないか、いや、きっとそうだ、と思い始めた。
半分くらい登っただろうか。男の前に、またしても障害物が現れた。男は目の前の大樹を見上げ、静に固唾を呑む。今度は迂回しようとせず、「この樹がなかったら」と内心で囁く。
大樹は消失した。
「錯覚じゃなかった。本当に消えたんだ! 本当に……」
どうしてだ。どういうことだ。何が起こった? いや、消えたんだ。それはわかっている。なぜ消えてしまったんだ。
まさか。
まさか自分が望んだから?
確かにが望んだタイミングで、目の前の障害物が消えた。いやいや、と男は頭を振る。
そんな力を持っているなんて、今まで知らなかった。というより、今まではそんな力は持っていなかったはずだ。目の前で物体が跡形もなく消失したのを見たのは、初めてなのだから。
しかしこれが自分の力でないのなら、ひとつだけ心当たりがある。
男は湿った地面にどっかりと座り込むと、背負っていたくたびれたリュックサックを肩から下ろした。中に入っているのは、生きていくのに最低限必要な道具たち。使い古されたその道具を上からひとつひとつどかしていくと、底の方に小さい物体が残った。
男はその物体を取り上げて、まじまじと見つめた。
石は受け取った頃と同じようにも見え、その色を更に深くしているようにも見えた。断言できるのは、その色彩が薄くなってはいないということだけだ。
この石が、木や岩を消したのだ。そう男は信じた。
男はおそるおそる、この石に向かって念じた。
「消した木をもとに戻したい」
何も起こらない。
「風が吹かないものかな」
何も起こらない。
「何か温かいものが食べたい」
何も起こらなかった。
どうやら石の力は万能ではないか、もしくは気まぐれらしい。
男は急に、自分のしていることが馬鹿らしく思えてきた。石も道具も、リュックサックの中に放り込む。さて、と空中に向かって呟くと、再び頂上を目指して山を登り始めた。
そこからの道のりは、それまでの障害物の多さから考えると不思議なほど、容易なものだった。すいすいとおもしろいように登っていけるのだ。リュックサックの中身が雑多な音を奏でられるほどの速さで、男はずんずん山道を進んでいく。
そうしてついに、男の両足がその山で一番高い地面を踏みしめた。
男の視界は鬱蒼とした木々によって遮られている。おかげで、街を見ることなどできやしない。
「この木々がなければ」
と、男は言った。
木々は消えた。
開けた視界から、男は街を見下ろした。それから、山を駆け下りた。
石の力は万能ではなかった。
この石はものを消すことしかできないのだ。他のどんな望みも願いも叶えてはくれない。ただものを消すことだけが、この石のできることだ。
男は恐ろしくなった。
ちょっと「なくなったらいいな」と思っただけで、しかもそれが本心からでなくても、この石の力は働いてしまう。一度思ってしまったことを取り消すことはできないし、消したものはもとに戻せない。
これから自分は、何か重要なものを消してしまうのではないか。大切なものを失ってしまうのではないか。大きな間違いを犯してしまうのではないか。
考えれば考えるほど、思っては駄目だと言い聞かせるほど、逆効果だった。
絶対に笑ってはいけない場面で、なぜか笑いがこみ上げてきてしまうのと、それは同じことだった。
男は山から見下ろした街の中を駆けながら、さまざまなものを消した。転がっていた空き瓶、立てかけてあったシャベル、バスケットから溢れた名も知らない果実。
このままだと、目に映るものすべてを消してしまいそうだ。
景色を見てはいけない。景色を、あらゆる物体を認識する前に、その場から離れるのだ。こんなに必死になって走ったことは、これまでなかっただろう。
「うわっ!」
男は叫んだ。目の前を一匹の猫が横切ったのだ。
ぶつかると思った。
猫は消えた。
男はその場にくずおれた。
初めて、命あるものを消してしまった。
いや、待て。男は気付いた。初めてではない。植物だって一種の生命体だ。
男は目を瞑った。景色を見なければいい。この目に何も映さなければいいのだ。しかしそれも裏目に出た。目を瞑ると想像が無限に広がり、消したくないものばかりが思い出される。
どうすればいいか、男にはわからなかった。石を捨てろと言ってくれる誰かがいればよかったが、そんな誰かはいなかった。
膨らみ続ける想像と、まばゆい思い出とを行き来しながら、男はいろいろなものを消した。消し続けた。
そしてとうとう、せかいを消した。
男が疾走した街は、いくつか欠けた部分がありながらも、今までとさほど変わらない様子でその日の夜を迎えた。その街には男も、男の着ていた服も、男の持ち物も残っていない。
男がくずおれていたその場所に、深い、深い緑色の石が転がっている。
SF短編 識織しの木 @cala
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