一瞬、意識が飛んだのかと思った。目がくらむのを感じた。体が芯からぐにゃりとねじ曲がるように、奇妙な浮遊感があたしを襲う。吐き気が喉をせりあがった。

 うたうはまだ何も言っていなかった。目を合わせただけだ。言葉の繰りだされる気配。ただそれだけのことへ、あたしは打ちのめされそうになったのだ。

 夜空の瞳が星灯りを失って、ひどく虚ろな空洞に視えた。意識がすうっと抜きとられて、そのまま吸いこまれそうな、そういう虚空だ。指先へ、電気の走るような感覚があった。似たような経験に覚えがある。

(あのときと、同じ……)

 うたうの最も深いところへ、触れようとしている。

 まさしく『触れる』のだ。あたしが言葉を『視る』のと同じように。ことのはわたりとして目覚めたあの日、語部ことはの唄へ感化されたのと同じように。しびれが肩まで広がって、頭まで麻痺させようとしていた。言葉が、その予兆ですら、あたしを塗りつぶそうと迫ってくる。この先を聞けば、帰ってこられないかもしれない。言葉の、感覚の洪水に呑みこまれて、息もできないまま押し流されてしまうかもしれない。怖くないと言ったら嘘になる。二年前は何も知らなかったけれど、今なら、言葉があまりにも劇的にあたしを変えてしまったことがわかる。

(構う、ものか)

 ようやく引きずりだすのだ、うたうの核心を。

 あたしの思いこみかもしれない。そういう不安はあったけれど、すがるように本を抱きしめ、銀の涙をため、あたしを見あげるうたうの言葉に、拒絶が含まれるとは思えない。毎日のように唄を交わして、互いの言葉を響かせあって、それを一度台無しにしたけれど、自らの過ちを認め、正し、再び相まみえるこの瞬間のために、自分のことも、唄のことも、うたうのことも、多くを考え、顧み、学んできた。その積み重ねが、詩歌として結実したからこそ、振りむいてもらえたんだ。

(あたしが受けとめなくて、どうする!)

 うたうの言葉を、想いを、あたしの中へ迎えいれる。

 それは、絶無の真空だった。

 冷たさが、体を芯から凍てつかせた。息が詰まり、喉の奥までいっぺんに渇ききった。苦しくて、骨のきしむような重さがのしかかって、あたしは思わずうめいた。『触れる』なんて、生やさしいものじゃない。空間そのものが、あたしを押しつぶしにかかっている。瞳に映る、果てしない暗黒。それは夜空の色をして、ひとつの星灯りも視られなかった。

 これがうたうの感覚だ。あたしは直観した。言葉を通じて、あるいは言葉すら超越して、『言葉に触れる』ことのはわたりの感覚が、あたしへ流れこんでくるのを感じる。なら、この苦しさは、冷たさは、きっと……。

「わたしは」

 うたうの声が聞こえた。無限とも思える黒々とした広がりの中へ、ふっと浮かびあがるようにその姿があった。指先は透きとおるように白く、消えてしまいそうに儚げだ。

「わたしは、ずっと、寂しかった、苦しかった!」

 その叫びは、うたうがずっと押し隠してきた、あるいは迂遠に唄へと乗せてきた本心に違いなかった。雷光としてひらめいたそれは、あたしが何よりも求めたものだ。

 うたうの言葉、思いの丈がこめられたそれは、立派な詩だ。

 お互いに言葉の世界をわたり、お互いの心を通いあわせること。わたりあいの真髄を、今まさに全身で体験している。息苦しさを越えてのぼってくる興奮。言葉を介して肌を伝う痛み、熱量。体が、感覚が繋がり、ひとつになっていく実感。そこへ身を浴して生ずるどろりとした欲動を、なんと呼んだらいいだろう。

 うたうの叫びは止まない。今まで溜めてきた激情を、炎として、雷雨として、地響きとして、唄わずにはいられない。

「友達なんていなくて、家族もずっと忙しくて、毎夜ひとりで眠っていた。そんなとき、母さまのくれたこの本が、わたしを連れだしてくれたのよ。風が、草木が、花の香りが、新しい世界が、わたしを呑みこむみたいだった! 想いあう人の気持ちが、かじかんだ手を癒やすくらいに、温かく沁みて感じられた!」

 その本が白日の下にさらされて、ようやくあたしも正体を認めた。勉強する中で、まさしく同じ本を手にしたことがあった。『小倉百人一首』、かるたとしても有名な和歌集の解説本だった。それで納得がいった。先ほどうたうが使った清少納言の和歌は、百人一首にあるものだ。突きはなしたようでいて、うたうは自らの核をさらしていた。

 百人一首がうたうの原点だった。あたしが恋の唄に感化されたのと同じように、世界が塗りかわるような衝撃を、うたうも体験したのだ。

 だけど、それだけで全部救われたのなら、うたうはこの場に来ていない。

「でも! わたしが好きになった言葉は、決して誰かと分かちあえることはなかった。わたしが詩歌へのめりこむほど、人との距離は隔たって、独りよがりになるばかりだった。こんなに素晴らしいものを知らない人たちへ幻滅しながら、本当は寂しくて、けれど、他の何かを好きにはなれなくて、頑なな自分が嫌いだった」

 うたうは言葉を切って、にらみつけるようにあたしを見た。

「だから、貴女の言葉を聞いて、新しい温もりを知って、変われるかもしれないと思った。そして、やっぱり変われないのだと突きつけられた!」

 痛いほどの視線は、あたしが負うべき罰だ。

 故事に裏打ちされた堅牢さも、技巧の織りなす緻密さも、風物が醸す華麗さも、そこにはない。けれど、ひとりの少女が全身で訴える感情が、針の筵となってあたしを刺す。

 あたしはうたうを救おうとして、よりいっそう、絶望させたのだ。

「わたしは、自分の浅ましさが許せない」

 歯ぎしりするように、うたうが言った。星を呑む暗黒は、いつしか灼熱へと転じていた。死を前にして赤く膨れあがる、凶星のごとく。

「期待するだけ無駄なのに、閉じこもっていれば傷つかないのに、わかりあえるはずないのに! もしかしたらと思ってしまう。一縷の希望へと、生娘みたいにすがってしまう。わたしが全身全霊をもって振るう言葉へ、ことごとく返してくれると! どんな古典にもなかった、新しい世界へ触れさせてくれると! 万にひとつもない可能性を捨てきれず、浮かれてのぼせたように、のこのこと決勝まで来てしまう。馬鹿馬鹿しいったらないわ!自分がこんなに愚か者だなんて、知りたくなかった!」

 裏がえった悲痛な声は、決して痛ましいばかりではない。自虐が混じる慟哭の裏には、他者を圧倒し、晴れ舞台を勝ちとる実力がともなっている。ただの愚か者なら、頂で待つことはない。だが、千代うたうは立っていた。これ以上望むべくもない、最高の舞台に。

 そして、あたしも、上がってきた。ささやくように、うたうが言う。

「いっそ無様をさらしてくれるなら、どれだけ心安らかだったか。けれど、貴女は来た。使い古された物語の、英雄然として」

 再び、うたうの目があたしをとらえた。そこには強い意志の光が点っている。

「その涙が、嘘でないと言うのなら! 過去を顧み、悔い、それすらも糧として、新たに歩を進めようと言うのなら!」

 流れる黒髪をなびかせて、華美な扇を突きつけて、切れ長の目をいからせて、叩みかけるように、うたうは叫ぶ。

「幼稚なわたしの幻想に、応えてみせなさいよ! 夜伽、恋っ!」

 道は拓かれた。逢坂の関を越え、うたうへの元へと登る道が。

 決して楽ではない。狭く、か細く、並大抵の力量で、辿ることはかなわない。

 でも、ずっと視えなかった。どこへ行けばいいのかわからなくて、こればかりを求めていた。どうすればうたうへ届くのか、そればかり考えてきた。ついに、それが示される。闇の中へ淡く浮かびあがる光明が。

 なら、やるべきことはひとつだけ。

 あたしのすべてを懸けて、ただ、押し通る。

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