千代 うたう
夕方、長く続いた雨も上がったので、久しぶりに散歩へ出た。風はまだ湿気をはらんで、ひやりと肌をなでて流れていく。墨だまりみたいな灰色の雲はちょっと薄くなったけれど、もったいぶるみたいに、青空を静かに隠してわだかまっている。雨の残り香か、ふうっと土のにおいが感じられて、なつかしい気分がした。
足の向くまま歩いて、公園へ行きあった。すべり台の側面がすっかり錆びついて、遊具に描かれた象の絵も剥げてしまっている。防球ネットをへだてたグラウンドで、青々しい雑草が雨粒に首をもたげているのが見える。
そしてそれは、雲間を裂くような出来事だった。
(あれって……)
木陰に、空を見あげる制服の少女。あどけない顔に、怜悧な表情。切れ長の目は夜空の色をして、長いまつ毛の奥で静かに息をひそめている。
千代うたう、間違いなかった。
写真とにらめっこを繰りかえさなければ、気がつかなかっただろう。それくらい、直に見る彼女は様がわりして見えた。深窓の姫君。おとぎ話めいた比喩がこれほどふさわしい人物も、そういないと思う。
「あの」
ろくに考えもせず声をかけると、おびえたように肩を跳ねさせて、こちらへ振りかえる。つやめく黒髪が、ゆるい曲線を描いてゆれた。
「なんですか」
思いのほか気は強いようで、鋭い視線を向けられる。まずかったなと思いつつ、探し求めた少女を目の前にして、少しだけ汗がにじんだ。
「千代うたうさん、ですよね? あたし、あなたの詩が聞きたくて」
言っても警戒を解く様子はなく、明らかに不審者を見る目をしている。どうやら詩歌部の人とは違って、あたしのことは知らないらしい。
「……意味不明」
いらだたしげにつぶやいて、立ち去ろうとする。あたしはあわてて、でも、呼びとめる術は、はっきり心得ているつもりだった。
霧にぬれた つめたい手が
あたしに息をできなくさせる
かなたに尾をひく 夢のこだまが
ゆれる心をとおざけていく
雲を裂くように
夜の帳はくろぐろと 寝物語からぬけだして
あなたが空へと咲いている
どうか 花びらの ひとひらでも
朝露の ひとしずくでも
あたしのほうへとかたむけて
天の川をさらい 星くずをくみとろうとする
あたしへ風をそよがして
気づけば、少女はあたしを見つめている。夜空のまなざしを、きりりと細くして。
千代うたうは、片腕を手で押さえながら、小さく身ぶるいをした。何かをこらえるかのように、あるいはもしかしたら、勇気をふるいたたせるかのように。
そうして、風が吹いてきた。
深緑と、寂れた巌の色を、ないまぜにして。
叢に臥し 岩に座し 暁に黙す
漠々たる日々に 書を繰ることをよすがとし
独り寒江の雪を愛でる
継ぐ歌は千代を数え あまねく天地を渡れども
花はあせるものにして 今やあたわず
風をしのぎ ただ雨読をなす庵へと
華胥の夢を望むなら
三顧の礼も かかる益なし
帳に囲われ 袖ぬらす夜
泪のしずくを 三に分けたとて
古めかしい言葉が、しなやかな流動をともなって、あたしの全身を打ちすえた。
一言一句までは追えなくとも、まとう色彩はいよいよ深く、《ことのはわたり》として詩を紡いでいるのは明らかだった。ひとり、世とへだたって書物を愛する日々。その中にわだかまる寂寥が、胸へせまるようだ。
久しく覚えのない高揚に、あたしは思わず笑みを浮かべる。あたしの全霊をもって臨まなくては、もったいない詠み手だろう。もしかしたら、《わたりびと》と相対するときにまして、あたしは意気ごんでいた。
銀の雪 川のせせらぎ あたしの胸をひたして
しみる寒さに ひとりをしのぶ くもり空の下
なみだの雨はしんしんと うたをつむいで
しおれた花の 声はうつくしい
わけるに足りない雨しずく
ながすこころは 海よりふかく
息をひそめて もぐるあなたを
あたしは追いかけよう
ひめた言葉の こがねの蜜を
すきとおったあぶくをさがして
くらくてひろい 夜のみなそこへ
千代うたうは両手をしかと握りしめ、まっすぐにあたしの唄を受けとめた。古色蒼然としたたたずまいは、ひとりの少女にまるで似つかわしくなく、それでいて、それを負って立つことをはっきりと納得させる、厳然とした迫力をそなえていた。
今度は躊躇なく、勢いづいて、少女は詩歌を繰りはじめる。小さな体で重々しい言葉を難なく扱い、すばやく丁寧に、とりどりの色を塗りかさねていく。ひたすら深く、けれどどこかみずみずしい息吹をほのめかせて、それらはひとつの唄へと収束していく。
夜の底 風雨の声 散る花の数も知らず
春の暁 鳥の啼く 独り夢より覚めて
斜陽 苔を照らして森へ入り
旅人 文をたずさえて深山へ来たる
秘めたる蜜 常ならぬ泡沫
海原の奥に湛えて
いざや願う 香炉峰の雪
簾を上げて ともに見むと
少女はそこで息をついて、静かに目を伏せる。あたしも、知らず息を呑んでいることに気がついた。湿った空気を掃きだすみたいに、ゆっくりと風が動く。
「……貴女の唄、変よね」
千代うたうは小さく首を振って、あたしへ向き直った。どこか超然とした態度はしかし、わずかばかり和らいでいる気がした。
「名前は」
聞かれて、それさえ伝えていなかったことに驚いた。怪しまれるのも当然のことだ。
「夜伽、恋。あたしは言葉が視えるの。あなたは?」
「……道理でね。肌が粟立つみたいだった。あんなに……不思議な唄なのに」
言って、少女はその感覚を思い出したように身ぶるいする。《ことのはわたり》として、千代うたうは言葉を肌で感じるらしい。
「恋……って呼ぶけど」
あらたまった風に、うたうはあたしを見あげる。年下なのはもちろんだけれど、それを勘定に入れてもうたうは小柄だ。面と向かう距離に近づいて、初めてそれが意識された。
整った目鼻立ち、藍がかった瞳は大きく見開き、まっすぐにあたしヘ視線をくれている。引きしめられた口元に意志の強さがありありとして、しかし、ごくりとつばを呑むのが、こわれもののような喉の動きで見てとれた。
「わたし、またここに来るわ。……唄を返してもらえたの、初めてだったから」
冷えきった、それこそ銀の雪みたいに白い頬へわずかばかり朱をさして、うたうが言う。あたしは力強くうなずいた。
「もちろん。あたしもまた来る、約束する。ふたりで《わたりあい》できたら、あたしも嬉しいから」
言うと、うたうは逃げるように顔を背けた。その拍子、一陣の風に雲がすばやく運ばれていく。あたしは傾きかけた日を浴びながら、誰かと約束を交わすのはいつ以来だろうと考えていた。
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