第二幕③


「……許せない」


 そう思った。

 れ聞いたメイド達の立ち話を思い出す。父は、幼いダリア王女をわざわざ見舞っていた。第三王子の死をなげかなしんでいた。子どもに愛情がないわけではないのだ。

 それなのに、ウエンディにその愛は向けられない。愛情の先は、後に生まれた第四王子であり、ウエンディの分は余っていない。

 一つ年下であるその第四王子には、きっととっくに教育係がついているだろう。後宮ではなく、王宮の中で、愛情を全て注がれて育っているだろう。

 ウエンディには誰もいないのに。

 生まれたタイミングが悪かった。側妃の子だから運が悪かった。ただそれだけで、なんの罪もない一人の子どもを忘れ去っていいはずがない。


 二十九歳の雪乃は、放置され、無視され、愛される他の家族のかげで寂しさをかかえて生きてきた小さなウエンディのために、おこった。

 なぜこちらから存在を知らせる必要があるだろう。なぜこちらから、都合よく国の一部になっていく必要があるだろう。

 衣食住は足りている。

 そして、自由だ。

 忘れられているなら、こちらも勝手にさせてもらおう。誰にも何も強要されずに生きてやる。

 それが『ウエンディ』としてのせんたくだった。


 でも、もしも、いつか誰かがウエンディのことを思い出したら。

 現状ではそんなことはありえないと思えるが、万が一ということもある。

 その時は、ウエンディの心に従おうと思う。

 抱えてしまった寂しさは、もうめられない。今までのことは忘れ、さあ今から家族だよと言われても、その手を取って全てを許すことは難しい。

 それでも、父や他の誰かが心からウエンディをおもい、心配し、そして謝罪してくれたら、もしかしたらいつか家族と思える日が来るかもしれない。

 なんにしろ、今は、自分の存在を知らせるつもりはなかった。


 とはいえ、さすがに無学はまずい、ということは自覚している。この世の記憶がうすいせいか、前世の記憶は生々しく、無知と無学が人をどんなふうにしてしまうのか、よく知っていた。

 幸運だったのは、側妃であった実母が、生まれた子のためにと本を沢山たくさん準備してくれていたことだ。


「これは……日本では絵本かな」


 そう思えるような、さしと単語の書かれた幼児用の学習書から、小学生用の児童書あたりまでがそろえられていてウエンディはそれを使って文字とある程度の常識を学んだ。

 まんではないが、学習するということにおいて、受験大国で育った記憶のある『雪乃』はエキスパートだ。まあ、当時の努力はほとんどになったけれども。


 第一、ウエンディはひまだった。メイドの目をぬすんでちょっと外に出て行くぐらいしかやることがない。残念ながらがんのようなものもなかったし、淑女として与えられる刺繡道具などもなく、かといって運動用の道具もない。当たり前だがゲームもないしらく本もない。

 寝るか、学ぶか。

 それで、部屋にある分の本はり切れるまで読んでしまった。

 一番難しかったのは発音で、聞き取れても口に出すとうまく話せない。やはり、耳にする会話自体が少なすぎるのだろう。

 どうにかしてもっと自由に部屋の外であれこれ動き回りたい、というのが幼いウエンディのなやみだった。

 けれど、子どもが一人でうろうろしているのは不自然だし、ウエンディの存在を知らせて回るようなものだ。だから、自由にというのは難しい。

 この悩みを解決できたのは、もっとずっと後のことだ。




 十二歳になった頃、夜中にこっそり出歩いた裏庭で、メイドの制服を見つけた。近くのしげみでは何やら男女のひそやかな声がしていて、王宮でこんな馬鹿なことをするメイドの服なら構わないだろうと、それを持って帰った。

 彼女がその後どうしたのかは分からないが、前世、そこそこ厳しく仕事をさせられたウエンディには、ごうとくとしか思えない。

 幸いにして、平民が十四歳前後から働き始めることもあり、十二歳のウエンディがその制服を着て歩いても大きなかんはなかった。それに、王宮のこんなおくふかくに入り込める人間というのは、身元がしっかりしている者ばかりで、いちいちすいすることもないようだった。


 それ以降、ウエンディはメイド服を着て、かなり長い間、部屋の外に出た。

 収集品でくされた部屋で絵画をかんしょうし、ちょうこくさわり、この国の芸術をたんのうした。

 会話をぬすきし、人々の思想や常識を吸収した。発音が急激に上達したのもこの頃だ。

 さらに、図書室を発見し、辞書と歴史書を手に入れた。

 その過程で見たさまざまな国の名前は、日本にいた頃は聞いたことのない国名ばかりだった。城の設備ややり方が古いとは思っていたが、文化の違いとか時代の違いとか、そういうレベルではなさそうだ。

 最終的に、地図を発見したことで、ここがどうやら『雪乃』の生きていた世界ではない、と確信した。大陸は見たことのない形をしている。


 以前からそうではないかと思っていたが、やはりここは、異世界だ。


 不思議な話だ、と思いはしたが、なぜかそれ以上の感想は浮かばない。異世界だからといって、人の営みや心の有り様は変わらないのだな、と思うだけだ。

 実際、読み漁った歴史書では、かつての記憶にあるようないざこざや戦争、あるいは自然のきょうを感じさせる災害などが多く見られた。

 そうやって、自国や他国のことをひたすらに学んでいる間も、ウエンディはそこはかとないむなしさを覚えていた。

 ウエンディは雪乃の記憶を持つが、当然はウエンディでもあった。まだ小さい、三歳までのウエンディは、まるでとうめいまくに包まれたような世界にいる。


 そこには誰もいなかった。

 与えられるのは乳だけ、包まれるのはうぶだけ。

 乳母がいなくなった後、触ふれ合うのは着替えを手伝うメイドの事務的な手だけ。

 愛されもにくまれもしない子。


 もしも雪乃が目覚めなければ、いまごろウエンディはどうなっていただろう。誰とも話さず、字も読めず、楽しいこともつらいことすら知らず、空っぽの時間だけを長く長く過ごす。


 それは『ひと』だろうか。

 人間と呼べるだろうか。

 この王城にいる全ての人々は、人間としてのウエンディを殺したも同然だった。

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