第二幕

第二幕①


 ウエンディが『目覚めた』のは、三歳の頃だった。丁度、乳母うばが引退し、王宮を退くとあいさつをしに来た時のことだ。


 この乳母は、乳母といっても、当時にもならないおっとりした若いむすめだった。しゃくれいじょうとしては順当にけっこんし、すぐに子にめぐまれたこともあり、本物の苦労知らずと言えるだろう。

 全てはっきりとおくに残っているわけではないが、乳を与えるついでのように、貴族の子女のたしなみを教えてくれた。赤ん坊に言っても分かるわけがないのに、そのいくつかはなぜか後に思い出された。


「ふさわしいとされるスカートのたけかみの長さは、年齢によって変わるのですよ」

「お酒を飲む時は、量の多いグラスになさい。その方がいにくいのです」

殿方とのがたにはたか獅子しし刺繡ししゅうを、そしてどんなに獅子が好きでも、自身のハンカチには花の刺繡にしておくのです」


 他にも色々とあったが、残念ながら覚えているのはこんなところだ。

 いやもうひとつ、


「女子たるもの、あしこしが強くなければなりません。ダンスをなさいませ。もし出来ない日があれば、庭をよく歩くのです」


 という教えについては、その日からずっと守っていたりする。

 ウエンディにとって、この乳母は、レヴァーゼという国での唯一の優しい記憶だ。

 しかし、彼女には彼女の子がいて、乳母という役目は貴族としての責務であったので、任を解かれれば去り行く者でもあった。


「良い子でお過ごしなさい」


 別れの日。彼女がそう言ったしゅんかんのことだ。

 三歳だったウエンディの頭が、とつじょ割れるように痛んだ。

 あまりの痛みに泣き叫んだが、当の乳母は、別れをしんでいるのだとかんちがいし、


「ごめんなさいね王女様、私には私の子が待っているの」


 と、そう微笑ほほえましそうに言い残して去った。

 残されたのは、メイドとウエンディの二人だけで、そのメイドは、ただひたすらウエンディが泣き止むまで壁際に立っていた。

 後に分かったことだが、それが彼女の仕事だった。メイドはじょとはちがい、身分は平民だ。えやもくよくなどを除き、王女殿でんの体にみだりにれることは、禁じられている。

 とにもかくにも、頭痛にのたうち回り、それがとうとつに収まった時、ウエンディはすでにウエンディではなかった。


わたりゆき 』というのが、にんしきしている自分の名前だ。


 ウエンディとしての自覚もあった。ただ、ウエンディは三歳のなんの教育も受けていない幼児でしかなく、行動範囲も恐ろしくせまく制限されていたので、出来ることはほとんどない。

 乳母とのほんのわずかな会話以外、ろくに話しかけられることもないから、聞き取りは出来ても、話すことは単語でしか出来ない。

 乳母がいなくなってからは、泣いてもなぐさめる者はいないため、悲しいという感情すらあいまいだ。ましてや喜びなど知らないし、腹が減ってもそこにどんな名がつくのか知らない。

 だから、前世の記憶を取り戻してからは、ウエンディはウエンディでありながらも、意識はほとんど雪乃にめられている。


 沢渡雪乃は、日本人だった。

 ごくごくつうの家庭に生まれ、ごくごく普通に育った。会社員の母と、教員の父を持ち、それなりの教育をほどこされ、十分な学歴をもって名のある外資系商社に就職をした。その能力を評価され、数年で秘書室に異動し、ハイペースで実績を積み上げていたと自負している。

 仕事は楽しく、つらいこともあったが、やりがいを感じていた。

 れんあいとはややえんどおかったから、二十九歳で独身だったけれど、それほどの問題だとは思っていない。順風まんぱんというほどではないが、山あり谷ありの当たり前の人生で、いつか結婚することもあるだろう、くらいには楽観的でもあった。


「まさか、その前に事故で死んでしまうとは思わなかったけどね」


 ぽつりと、日本語でつぶやいてみる。


 さて、そういうわけで、ウエンディは、雪乃として日本での生活を二十九年間してきた記憶がある。

 室内の調度品、メイドの仕事などをながめるに、ここがヨーロッパ風の貴族のようなかんきょうであることはすぐに分かった。そうだとすると、これほどに放置されているのはおかしい気がした。

『雪乃』としての貴族の知識は、せいぜい教科書か物語によるものだが、実の両親ではなく乳母がつくことや、成長に合わせて家庭教師がつき、座学やしゅくじょ教育が施されることくらいは知っている。

 自分の環境に当てはまることも多いが、教育に関してだけは、開始がおそい気がした。


「まあそのうち始まるでしょう」


 そう最初はのん に構えていたが、四歳になってもなんのおともない。気づけば家族の誰にも会ったことがないと首をかしげることになる。

 ただ、幼児の体は、とにかくつかれる。そしてねむい。いつでもどこでも眠れる。体感時間は、大人よりもずっと短いだろう。

 英語でもフランス語でもドイツ語でも、ましてや日本語でもないこちらの言葉は、発音することが難しい。だから、自分から何かアプローチすることも出来なかった。

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