第30話 ルス王国
「んだんだ」
トルティーアの北の国境と接する国。イタリアーナから見れば北の山脈を越え、さらに東に進路を取り、いくつもの国境を越えてやっとたどりつくほどに遠い国。
海路で向かうにはシッタ・デ・マーリから南下して陸中海に出、東に進路を取った後北上。トルティーアの領海を抜け、さらに北へ進み内陸にある白海沿岸に上陸してから馬車で数日はかかる。
革張りのソファーにガラス窓という、宮殿の一室のように豪奢な車内で本をめくるのがルス王国第一王女、エカチェリーナ・ルスであった。
南方の温かみのある色合いと違い、北国の王族独特の金属質な光沢の銀髪。
透けるほどに白い肌を彩る、朱で線を引いたかのような唇。
筋の通った鼻の上には万人を魅了する碧の瞳が光っていた。
彼女はルス領内でも美女が多いと評判の、コーサカス山脈出身の母を持つ。彼女自身も幼いころからその美貌を謳われていた。
現在、エカチェリーナは国境沿いの街の慰問のため南に馬車を走らせている。冬が来れば雪と氷に閉ざされるこの一帯も、春から夏にかけては青々とした木々とライ麦が風にそよぐ畑が広がっている。
「こっだに面白いん、初めてだ」
夏になると大人の背丈ほどに伸び、黄金色にその姿を変えて実を付けるライ麦は国土の多くが寒冷であるルスでは重要な作物だった。
寒さに強くやせた土地でも育つ。全能の神ディオスがこの地に広めたと言われ、ルスの国旗ともなっていた。
だがこの地も後数か月で雪と氷に閉ざされ厳しい冬が来る。その前に収穫をはじめとした冬支度を済ませねばならない。
しばしばルスの南の国境を侵犯してくるトルティーアが、近々大戦をおこなうという。だが援軍として駆け付けようにもルス王国には大規模な海軍がなかった。
エカチェリーナは揺れる馬車の中でも器用に本のページをめくり、目を通す。
幼いころは酔ってしまった馬車の中での読書もすっかり平気になっていた。
今彼女が呼んでいるのは王女と侍女の物語。
王女が自分に仕える侍女と禁断の恋に落ち、国も家も捨てて駆け落ちする。
エカチェリーナは他に類を見ない読書好きで、お抱えの作家が何人もいるほどだ。
中にはあまりに刺激的な内容のため、ディオス教の異端審問官に目を付けられて他国を追放されてきた者さえいた。
「エカチェリーナ様、お茶をどうぞ」
傍らに控えていた侍女が、手慣れた手つきでカップに紅茶を注いでいく。ルス王国のお茶らしく、ソーサーにジャムを添えることも忘れていない。
だがその拍子に運悪く、馬車が大きく揺れる。その不運が侍女の運命を狂わせた。
侍女が注いだ紅茶が本の端に触れてしまった。
長年月を経て黄色く変色した紙面に浮かび上がる、一転の茶色い染み。
「エカチェリーナ様……」
染みをその目で見た侍女の顔色が青くなり、その場に土下座した。
「も、もうしわけございません!」
王室御用達の馬車とはいえ、スペースがそれほどあるわけではない。侍女の足はソファーに当たり、頭は机の脚に当たって体を折り曲げねばならないほどだった。
だがそれでも侍女は土下座をやめようとはしない。
これくらいで許してもらえるとは思わないが、反省すらしていないとエカチェリーナが判断すればどのような罰を受けるかはわからない。
「いづもの、刑に処ぜ」
ルス王国の訛りで残酷な刑を言い渡す一国の王女。
血が通っていないとすら噂される白い肌は、一人の運命を捻じ曲げたというのに怒りに赤く染まることもなかった。
そのまま侍女は馬車に乗り込んできた護衛の兵に連行されていく。
侍女が処された刑は、エカチェリーナが創案した特別の刑、「写本の刑」。ひと月城の一室に閉じこもり、外界との接触を一切断たれただひたすら破損した本の写しを作っていく。
目が霞み、手がつり、飢えと渇きに苦しんでも休むことはできない。一日中本に触れていられるのでエカチェリーナにとってはご褒美なのだが他人にとっては拷問でしかなかった。
馬車に入ってきた新たな侍女が震える手で差し出してきたのは、海外の情勢報告。
世紀の大決戦がはじまるというイタリアーナ、シュパーニエン、そしてトルティーアについて書かれていた。
マルタ島での顛末についても。
その詳細な分析は、イタリアーナに劣るものではなかった。
「イタリアーナも、ながながやるな。信頼じでも、いいのがもしれん」
慰問を終えた後は、馬首を西へと巡らせる。
エカチェリーナが旅するもう一つの目的は、婚約者に会いに行くためであった。
「色々どよぐねえ噂聞くが、本当け?」
周辺国を刺激しないように秘密裏に進められていた今回の縁談。
お相手も一国の王族であり、勇猛果敢ではあるが好色と聞く。
とはいえ噂は噂。ルス王国の諜報網がいかに優れているとはいえ、人物など実際に会ってみなければわからないことも多い。
侍女が答える前に、エカチェリーナののった馬車は歩みを急に止めた。
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