第29話 胴切りの刑

 東へ向かうこと数日、援軍と合流したイザク・パシャは報告のためにマホメッド十七世の旗艦を訪れた。


 広い艦橋の中居並ぶ武官たちの顔は険しく、彼らの腰にある半月刀が今にも自分の首をはねるのではとイザク・パシャは気が気でなかった。


マホメッド十七世は普段と変わらず、くぼんだまぶたの奥の切れ長の瞳を接見相手に向けていた。だが彼は人を処刑する時ですら表情をほとんど変えないので油断できない。


足の震えを必死に押し隠しながらトルティーア式に地面に額をこすりつける礼をとり、その後マルタ島攻略戦が不首尾に終わったことを詫び、その際の状況を必死に述べる。


さらにお預かりした兵をあれ以上失うより、勇気ある撤退をしたと締めくくった。


反乱の件は伏せておく。迂闊に報告すれば司令官としての能力を疑われ、首ではなくさらに苦しみが長引く胴切りの刑に処されかねない。


内心では震えながらもと訥々と報告を終え、再び床に額をこすりつける。普段はなんとも思わない船の揺れが気持ち悪い。


生きて再び顔を上げられるのかとイザク・パシャは不安におののきながら、マホメッド十七世の言葉を待った。


「まあよい。許す」


だが彼の返答はあまりにあっさりとしたものだった。


敗北とともに数千の兵を失ったというのに、ちり紙一つ損をしたかのような顔つきである。


「お前がいない間、面白いものが手に入った。調子に乗る彼らの鼻を明かしてやれるだろう」


彼が笑うところを見たのは、イザク・パシャでさえ数年振りだった。






「女王陛下とカルロス陛下に敬礼!」


上陸のための小舟、はしけ舟から降り立ったクリスティーナたちをマルタ島の将兵が出迎える。


右の肩と二の腕がむきだしになった甲冑を身にまとったクリスティーナと、シュパー二エンの王だけに許された黄金の甲冑をまとったカルロスがそれに返礼した。


三ヶ月ぶりに訪れたマルタ島はまるで廃墟だった。


輝かんばかりだった騎士の甲冑はこびりついた血で染まり、整列した将兵に無傷の者は一人もいない。


ある兵は変形した腕を布で吊り、ある将は膝から下が欠けた脚の替わりに杖で身体を支えていた。


要塞の周囲の城壁は随所で崩れかけ、木柵や土嚢で応急措置をしていない場所が見当たらないほどだ。


「クリスティーナ、久しぶり……」


三か月ぶりに見る想い人の姿。暖かい色合いの金髪も、凪いだ海のように透き通った色の瞳も変わってはいない。毎夜夢に見た彼女の姿に、パウロは駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られる。


だが、その足を彼女のほうへ向けることはできなかった。


「いやはや、死にぞこなってしまいましたな」


奇跡的にかすり傷一つ負わなかったというヴァレッタは豪胆に笑うが、まとっている甲冑はあちこちがひしゃげて見る影もない。


ヴァレッタとともにクリスティーナを出迎えたパウロも奇跡的に無傷だったが、さすがに疲労の色が濃い。


クリスティーナは唖然として呟いた。


「これで本当に勝利したのですか……」


「無論! 尻尾を巻いて逃げたのはトルティーアの方ですからな」


「辛いときには相手も辛い。戦場の常ってやつだよ、クリスティーナ」


 深紅の旗を掲げた高速の連絡船がもたらしたトルティーア軍撤退の報告。


 その報を受け駆けつけたイタリアーナ・シュパーニエン連合軍が目にしたのは、三か月にわたる攻防戦でもはや形を成していない城壁と、血がこびりついた甲冑に身を包んだヴァレッタたち騎士の姿だった。


「でもパウロ、ヴァレッタ、無事でよかった……」


 クリスティーナの瞳には涙がにじんでいる。


「ガルシーアも無事、とはいかぬか。だがよく生き残った。また余のために働いてくれ」


「しかしすっかり打ち解けたようだな」


カルロスの笑顔の先には肩を支えられて歩くシュパーニエン将軍、ガルシーアの姿があった。


シュパーニエンの将兵をねぎらうため、王であるカルロスもこの地を訪れていた。


「背中を預けて戦うことは他の何よりも絆を育てる。此度の戦いでは勝利以上のものを得たと言えよう」


「もったいなきお言葉」


ガルーシアはヴァレッタに肩を貸されたまま頭を下げた。


「ふむ。諸君らはずいぶんと『仲良く』なったようだな」

「さすがの御慧眼。我々はすでに熱く固く、太い絆で結ばれていますからな!」

「熱く固いはわかりますけど…… 太い?」


ヴァレッタの高笑いに、クリスティーナは首をかしげた。


「レディは知らなくてよいこともある」


カルロスは隣に立つクリスティーナの手をとり、さりげなく手の甲にキスをした。


「未来の妻をけがすあらゆるものから、守ることを誓おう」


 半ば朽ちた要塞の前に広がるのは、獅子と王冠、二国の旗を掲げた三百を超える大船団。


 港がある入り江の外海に帆を畳んで錨を下ろす大小さまざまな軍船が、三か月前マルタ島の水平線を埋め尽くしたトルティーア軍の代わりに控えていた。


この船でもってトルティーアの軍を追撃し、撃滅するのだ。


 無傷の船団をバックに演じられた手の甲へのキスは、両陣営の士気を高めるのに一層の効果があった。


クリスティーナの顔がほころび、場に居合わせた者のほとんどがそれを情愛によるものと解釈する。祝福と称賛の声が陸からも海からも絶えることがない。


だが彼女の従兄弟パウロだけは拳を握り締めて耐えていた。


 数万の将兵の前で、想い人に対し愛を示される。


 辛くないわけがないが、少しでも嫌そうな表情をすれば両国の関係に亀裂が入る。パウロは唇を血がにじむほどにかみしめ、必死に笑顔を浮かべていた。


 港に立つ傷ついた将兵たちの拍手。


 同席していた士気向上のための軍楽隊が奏でる祝福の音楽は、美しくも空々しい。自分の不幸を挑発しているようにさえ聞こえる。


 パウロは腰に差した剣で、軍楽隊を残らず切り捨てたい衝動にかられた。


 やめろ。クリスティーナを、あんな男の前で祝福するな。


 鞘から刀身がわずかにその姿をのぞかせたまさにその時、クリスティーナと傍らにひざまずいていたパウロの目が一瞬だけ合った。


 涙を一滴だけその目に浮かべながらも、その表情はどこまでも気高く暖かい。


 パウロはわずかに抜かれた剣をふたたび鞘に納めた。


(そうだ。僕が好きなのは、そんなクリスティーナなんだ)


 そんな彼女が好きなのだ。両親を失っても女王たらんと気高く振る舞ったクリスティーナこそが好きなのだ。


 望まぬ結婚にも全力で取り組もうとしている、王族の矜持を忘れない彼女が好きなのだ。


 もしすべてを捨てて自分と駆け落ちするような無責任な人間なら決して好きにはならなかっただろう。


 軍楽隊の演奏が終わるのに合わせ、パウロはクリスティーナとカルロスの前に改めてひざまずいた。


腰の剣を鞘ごと抜いて、二人の王に掲げる。


それは騎士が王にのみ行う、忠誠の証。この剣であなたに切られても後悔しないという覚悟を示す証。


「イタリアーナの将軍として。お二人に必ず勝利を捧げます」


先ほどとは比べ物にならない大歓声が島の内外から響く。


 クリスティーナは寂しげに笑っていたが、カルロスは満足げに笑っていた。


「ふむ。そういうことか」


マルタ島開戦の前にぎこちなかった剣のキレは、その日の王族観戦の交流試合で元の調子を取り戻していた。


「では、参りましょう。わたくしたちの国と民を守るために」

「ゆくぞ。本国で我らの無事を祈る女子供に勝利を捧げるために」


観戦の後、二国の王に率いられた軍は再び船に移り、戦場へと向かう。


マルタ島での死闘を経て、季節は夏から秋へと移り変わってゆく。島にまばらに生える木々の葉は赤味を帯び、帆をはらませる風に冷たいものがまじり始めていた。


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