かんざし

甘夏みゆき

簪(かんざし)

喜助は寝そべったまま両手を広げると、首だけ起こして辺りを見渡した。

二間間口の作業場はがらんどうで、下絵描き用の半紙一枚残っていない。こう見ると存外広い部屋だった。


 錺師喜助かざりしきすけが浅草の表長屋に見世みせを構えたのは、今から三十年前の事である。

 喜助は腕のいい錺師で、ひと時は十二名の弟子を取っていた。その時分は手狭で、ゆくゆくはもっと大きな家へ越そうと思っていたが。今となってはそうしなくて良かったと喜助は思った。


 弟子たちがみな道半ばで見世を去ってからずいぶん経つ。そしてここ数年は弟子の行き来もなくなって、小間物屋の注文もほとんど途絶えていた。


 あの頃を思い出した喜助は苦笑いすると、不意に真顔になって正面を見据えた。連子窓からは冬の日差しが差し込んで、部屋に舞った細かいちりが星屑のように瞬いている。

 喜助は手を伸ばすと、その星屑を掴もうとした。しかし何度拳をつくろうとしても手先が震え、そのつど喜助の指は中途半端に宙を掴んだ。


「親方、ただいま戻りました」


 熱心に手を開け広げしている喜助の耳に、静かだがよく通る声がした。

 男は喜助が返事する間もなく作業場に上がり込み、寝ている喜助の顔を覗きこむ。いつも涼しげな男の目が忙しなく動き、喜助の様子をうかがっている。

 喜助本人よりも喜助の体を気遣う弟子の政次郎は、こうやって常に喜助の一挙手一投足を見逃さなかった。


「勘違いするな。俺ぁ別に具合が悪くて寝転んでいるわけじゃねぇ」


 喜助は笑いながら男の肩を押して上体を起こすと、政次郎は深い息を一つ吐いた。

 喜助が作業中に倒れたのは、丁度二年前の今時分である。政次郎はその時の事を思い出したのかもしれない。気づけば政次郎の顔は、紙のように白くなっていた。


「手前ぇの体は手前ぇが一番よく分かるさ。……けど、心配してくれてありがとよ」


 喜助が礼を云うと、切れ長な政次郎の眼がわずかに見開かれた。喜助が誰かに礼を述べるなど、まれなことだった。昔から癇癪持ちで口が悪く、弟子のやる事なす事全てにケチをつけてきた。そんな喜助に耐えかねた弟子達は、ある者は夜逃げ同然に見世を出てゆき、またある者は喜助に散々悪態をついた後、見世の看板を踏みつけて去っていった。


「政お前ぇ、正月で幾つになった」


 喜助が思い立ったままに問うと、政次郎は「四十になりました」と答えた。

 小さい喜助に合わせて大きな体を丸める姿は昔から変わらない。しかしよく見ると政次郎の小鬢には、白いものが混じっていた。


「そうか、そんなになるか」


 十二で奉公へ来た時分の政次郎は大人しくやせっぽっちで覇気がなく、見世を真っ先に辞めるのはコイツだろうと踏んでいた。

 簪づくりは道具を使いこなし、なんとか思うような物を作れるようになるまで十年かかる。だが実際この見世でそれをやってのけたのは、政次郎一人だけだった。


「全く、お前も物好きな野郎だよ。結局俺が見世を畳むまで勤め上げちまいやがった。散々独り立ちしろって云っても聞きゃあしねぇ。馬鹿野郎だよ、お前ぇは本当に」

「すいません」


 口先だけそう云って、全く悪びれない政次郎を見て喜助は笑った。こんな風に心の底から笑えたのはいつぶりだろう。いやもしかしたら自分は、前からこんな風に笑っていたのかもしれない。そのことに喜助はずっと、気づいていなかっただけなのかもしれない。


「そんな馬鹿野郎だが、お前ぇは一応俺の一番弟子だからな。こいつは俺からの餞別だ。下手くそだとかここが気に入らねぇとかは受け付けるが、返品はなしにしてくれ」


 喜助は珍しく歯切れ悪くそう云うと、懐から平打簪ひらうちかんざしを取り出した。

 簪の飾りには、心の文字に錠前じょうまえの意匠が施されている。

 しかしよく見るとその簪は心の文字がいびつになって、ぶら下がった錠前も鍵穴が付いていなかった。

 喜助はそれをほとんど動かぬ利き手で政次郎に手渡すと、政次郎の顔がぐしゃりと歪んだ。


「——親方、この簪の意味知ってますかい?」

「あたぼうよ。ま、これを男に贈ったのは初めてだがな」


 喜助が鼻の下を啜って答えると、政次郎は簪を握りしめたままさめざめと泣き始めた。


「政、随分待たせたな。どうでぇ、今日は祝言を挙げる代わりに二人でしっぽり酒でも酌み交わそうじゃねぇか」


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かんざし 甘夏みゆき @amanatumiyuki

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