第八章:Please kill me.
※残酷な表現を含みます。ご注意ください。
ミナトの家の夜は、常に怒声と泣き声に包まれていた。僕は狭い部屋の隅で膝を抱え、じっと下を向くことで、両親の喧嘩が終わるのを待つのが日課となっていた。
「あんたなんかと結婚したことが、間違いだった」
「うるさい! 俺は仕事でストレスが溜まっているんだ!」
リビングからはガラスが割れる音や机を叩く鈍い音、母の悲鳴、そして父の荒々しい怒鳴り声が響いている。僕は必死に耳を塞ぎながら、かつて穏やかだった家庭を思い出していた。幼い頃、父は誰よりも正義感に満ち、スーツ姿を誇らしげにしていた。母も優しく微笑み、彼女の髪を撫でてくれた。しかし、今目の前にいるのは、心を病んだ父と、酒に溺れた母だ。最も恐ろしいのは、この状況にすっかり慣れてしまった自分である。そう思うと、目から涙がこぼれ落ちる。
「あ…」そういえば、明日の学校が短縮授業だということを伝えに行かなければならない。…が、正直、伝えたくない。なぜなら、あんな両親と話すことすら怖いからだ。恐怖の色が僕の目の中に浮かんでいる気がする。二階にある自分の部屋から、一階にあるリビングへ降りることさえ怖い、やりたくない。しかし、伝えなければ、明日「なんで伝えてくれなかったんだ、このバカ者」と怒鳴られてしまうだろう。それも嫌だ。そう思いながら、僕は涙を拭かずに、そろりそろりと階段を下りていった。
「あ、あの…」僕の声は二人の喧嘩の声にかき消されてしまった。
「大体、お前が生まれてきたから俺が不幸になったんだ。この家から出ていけ。悪魔め!」父は僕の小さな体を抱えると、そのまま玄関の外へ放り出してしまった。ドアに鍵がかけられ、中には絶対に入れなくなった。
…まただ。このようなことは、毎週のように起こる。「出ていけ、出ていけ」と僕の耳に響く大きな声で怒鳴られ、寒い家の外へ追い出される。そのまま一晩過ごし、明日の朝まで家の中には決して入れない。僕の服は冬の荒々しい北風が雨戸をがたがたと揺らす季節には全く合っていない薄着だから、非常に寒く、風邪を引きそうだ。しかし、風邪を引いた方が僕には嬉しいのかもしれない。前回、僕が熱を出した時、なぜか両親から喧嘩の声は消え、風邪が治るまで優しく看病してくれた。僕はその優しさをもっと感じていたかった。そう考えると、ずっと風邪を引いていた方が僕は幸せかもしれない。
そんな『死の家』に住む僕にとって、学校は生きる喜びを感じることのできる場所だった。僕には友達も多く、学校では一日楽しく過ごすことができた。窓から見えるちょっと眩しい日差しも大好きだし、三階から見える綺麗な景色もお気に入りだ。逆に言えば、誰もが好きであろうゴールデンウィークや夏休み、お正月はほとんど好きではなかった。なぜなら、学校がない日には両親と過ごす時間が増えてしまうからだ。毎年、それらが近づくにつれて、心がズキズキと痛くなる自分がいた。それに比べると、学校は僕を幸せでいさせてくれる場所だったと思う。
…しかし、そんな幸せな時間も長くは続かなかった。
「ミナトって変な顔してるよね~ww」去年の秋ごろからから、そんな言葉が僕の耳に入るようになった。最初はほんの数人だけが言っているだけだったが、いつの間にかクラスのほぼ全員がその言葉を口にするようになっていた。
「キモい」「死ね」そんな言葉が、まるで日常の挨拶のように僕に投げかけられる。どれだけ心を閉ざしても、耳を塞いでも、言葉の刃は簡単に心の奥深くまで突き刺さる。気がついたら、僕の足はトイレの個室へと向かっていた。本来なら、この場所に逃げたくはなかった。逃げたら負けだと思っていたから。しかし、僕の体は僕の意志とは関係なく、静かな場所を求めていた。個室の扉を閉めると、ほんの少しだけ安心する。外の世界と隔てられている気がするから。しかし、それもほんの束の間。クスクスと笑う声が扉の向こうから聞こえてくる。
「またトイレこもってるよ、ミナトww」 「ホント、陰キャだよな~」
笑い声が広がる。心がぎゅっと縮こまるのがわかる。逃げ場なんて、どこにもない。「こんな世界、いっそ消えてしまいたい」と何度思ったことだろうか。
こうなってしまった原因は、おそらく夏休み明けのある出来事だと思う。
「ミナト、奥教室にある花瓶を持ってきてくれ」先生に頼まれたとき、少しだけ嫌な予感がした。でも、断る理由はなかった。鍵をガチャリと開け、ひんやりとした空気の中に足を踏み入れる。奥教室は普段使われていないためか、暗くて埃っぽい匂いがする。早く取って戻ろう。そう思った瞬間、僕の目に入ったのは、床に散らばった無数のガラス片だった。
「...え?」
花瓶は、すでに割れていた。誰が割ったのかはわからない。しかし、僕がやったわけではないのは確かだ。どうしよう。とりあえず先生を呼ぼうか。そう考えたとき、背後から声が聞こえた。
「ミナト、何をしている?」振り返ると、先生が僕を見下ろしていた。
「先生、この花瓶...」僕が説明しようとしたその瞬間、先生の顔が険しくなった。
「お前が割ったのか?」
「ち、違います!僕が来たときには、もう割れていて…」
「言い訳をするな!」先生の怒声が、がらんとした教室に響く。『僕はそんなことなど絶対にしない』と何度も言った。しかし、先生は聞く耳を持たなかった。そして、その光景を静かに見つめていたクラスメイトたちの視線は、まるで冷たい刃のように僕の心を抉った。「嘘つき」 「変なやつ、気持ち悪い」 そんな言葉が、まるで呪いのように僕の周りを取り巻くようになったのは、あの日からだった。誰も真実を知ろうとしない。
「...死にたい」そう呟いた瞬間、ずっと心の奥底で燻っていたもの、ゆっくりと、しかし確実に濃くなっていった闇の正体が、ふと見えた気がした。この世は理不尽で、不幸ばかりが続いている。いつからだろう、僕は自分を嫌いになり、やがて存在価値すら見失っていった。
家では、僕の言葉は両親に届かない。どれだけ叫んでも、どれだけ訴えても、二人の視線は虚空をさまよい、僕の存在など彼らにとってはただの背景に過ぎなかった。僕は彼らの子供であるはずなのに、まるで空気のように扱われる。 学校では、それ以上に酷かった。僕の容姿や仕草は「普通」とは違うらしく、クラスの格好の的となった。最初は理解できなかった。ただ僕は僕として生きているだけなのに、なぜそれを否定されなければならないのか。 ...だが、その疑問を抱くことすら無意味だと気づいた。ただ黙って彼らの視線をやり過ごし、心ない言葉を浴びても無表情でいること。それが僕にできる唯一の抵抗だった。 だけど、もう限界だった。 この世界はあまりにも冷たく、絶望だけが色濃く染みついていた。僕の居場所など、どこにもない。こんな世界で生き続けるくらいなら、いっそ死んでしまったほうが楽になれる。 そう思いながら、僕は雨の降る街を歩いていた。涙でにじんだ景色の中で、、気づけば橋の上に立っていた。ここで終われば、きっと楽になれる。そう思い、手すりに手をかけようとする。 …しかし、手が震えて、どうしても掴めなかった。 僕の心は『死にたい』と強く願っているのに、僕の体は『死ぬのが怖い』と拒絶していた。死を決意しているのに、死ねないなんて...。僕の中の闇は、さらに深く、濃くなっていった。
『自分で死ぬことができないのなら、誰かに殺してもらおう』 そう考えるようになったのは、それからだった。あの日の後も、ロープを用意したり、大量の薬を買い込んだり、さまざまな「死に方」を試した。 ...だが、すべて失敗に終わった。やはり僕の体が『死は怖い』と拒んでいるのだろう。ならば、誰かに殺してもらうしかない。そうすれば、恐怖を感じる暇もなく死ねる。 しかし、この国では、人を殺すことは『殺人』と呼ばれる。。殺人者は逮捕され、刑務所に入れられ、一生を終えるか、あるいは死刑にされる。そんなリスクを負ってまで、僕を殺してくれる人などいるはずがない。…そう思っていた。
そんなある日、僕はふと立ち寄った古びた本屋の片隅で、一冊の雑誌を見つけた。 表紙には不気味な廃墟の写真と、大きな赤字でこう書かれていた。 「神が願いを叶える廃墟ビル クラーキャッスル」
「...神が願いを?」 僕は思わず雑誌を手に取り、その特集ページを開いた。
クラーキャッスル。それは街の外れにある、長年放置されたビル。かつて高級ホテルとして建設されたものの、オーナーの突然の死によって未完成のまま放棄された。 以来、数々の心霊現象が噂され、人々はそこに「神」が住み着いたと囁くようになった。
“クラーキャッスルの神に願えば、どんな望みも叶う”そんな伝説を信じ、これまでに多くの者が訪れたという。…だが、大抵の者はそのまま行方不明になっているらしい。
願いが叶う。ならば、僕の願いも叶えてくれるのだろうか。僕は小さく呟いた。
「…僕を、殺してください(Please kill me.)」人が人を殺すことは許されない。でも、「神」が人を殺してはいけないという法律は、この国にはない。もし神に頼めば、僕は確実に死ねる。僕は初めて、未来に「希望」を感じた。“死ねる”という希望を。
そうして僕は、クラーキャッスルへと向かった。
「じゃあ、ミナトは神様に殺してほしくてここに来たんだ」イクラは僕の話を真剣に聞いてくれた。普通、「僕は自分を殺してもらうことを願います」なんていったら、『イカれたやつ』などと騒がれ、自分の意思に反して病院に連れて行かれてしまうだろう。しかし、彼女はそんなことはせず、ただ自分の話を最後まで聞いてくれた。そして、受け止めてくれた。思えば、自分のことを受け止めてくれる人が現れるのは、彼女が初めてだ。そう思うと、なぜか目から涙が出てきた。絶望の涙ではなく、大きな喜びの涙が。
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