第8話 夕刻の一幕
玄関ドアがしっかり閉まったのを見届けて、青年は大きく息をついた。ここはいつ来ても緊張する。できることならあまり来ないでおきたい場所だ。……
「
タイミングよく飛んできた声に飛び上がって返事をした。先に出ていた杏が門扉に手をかけた格好のまま顔だけをこちらに向けていた。飛び石伝いに急いで駆け寄ると彼女は僅かに口の端を持ち上げた。
「……今日は、ごめんね」
いつもは自信に満ち溢れているその双眸には珍しく気落ちした色が滲んでいた。彼女が何に責任を感じているかは手に取るようにわかったけど、それはむしろ彼女の台詞ではなくて。
「悪いのは俺の方だよ。せっかくのイベントを台無しにしちゃってさ。すごく、申し訳ないことした」
「あんたのせいじゃないよ。あれはあの子たちが悪い」
「でも俺が高いところ苦手だって知らなかったわけだし。
「そんな気の遣い方をする子たちじゃないんだけどね……。前もってちゃんと言っておけばよかったのね」
杏は今しがた後にしてきた家――長年過ごしてきた実家を振り仰いだ。良太もつられて視線を投げる。彼女の見つめる先が彼らの部屋なのだろうか。ぴったり閉められた二階の窓ガラスは輝く夕空を映すばかり。カーテンが引かれていることの他には何の情報も得られない。
杏とともにゴンドラに押しこまれた後、
乗りこんだそれが何のアトラクションなのか、良太が理解したのは数分後のことだった。
「これまさか……カンラン――」
「ねえ、顔真っ青よ。大丈夫?」
「ああああこっちに来ないで! 傾く! 傾くッ!」
向かいにいた杏は言われるがままに浮かせた腰を下ろした。その間にも園内の様々な施設はどんどん小さくなっていく。
やがて緑の向こうにジオラマのような街並みが現れ、視界いっぱいに青い空が広がり、「まもなく頂上です」と音声ガイドが流れて――あとのことはよく覚えていない。気がついたら良太は降り口そばのベンチに座りこんでいて、隣には仁王立ちの杏にこってり絞られる少年たちの姿があった。
時刻はそろそろ夕食時だが空はまだ明るい。幾分か熱の取れたぬるい風がふたりの間を吹き抜けていった。門柱脇に植えられたイロハモミジがさわさわ鳴り、頭の高い位置でひとつにまとめた杏の長い髪もふわりと舞う。その整った横顔を眺めていると、双子たちにとって杏は本当に自慢の叔母なんだろうなと思った。美人で、その辺の男たちよりよっぽど格好よくて頼りになる。曲がったことが嫌いで、何かあっても責任を転嫁するようなことはなくて。
「――やっぱり、俺が一緒じゃなかった方がみんな楽しめたかな。その方がいろいろ満喫できただろうし、俺はひとりで別行動したって大丈夫だし……」
夕風に囁きを乗せるうちに杏の視線がこちらに向くのを感じた。というか刺さってる。目元や頬のあたりがチクチクする。
柳眉を逆立て、キッと良太を睨む彼女の瞳には炎が揺らめいていた。
「何言ってんの。なんでそこで遠慮するの? それなら最初からあたしたちだけで出かければよかったのよ。あの子たちのこと考えてくれるのは嬉しいけど、あたしが一緒にいたいのはあの子たちじゃない!」
甥っ子たちは可愛いけれど甥はあくまで甥なのだ。同じ時を過ごしたい、隣にいてほしいと望む相手にはなりえない。
予期せぬ沈黙が訪れ、青年が弁解するよりも早く杏はハッと息を呑んだ。彼をまっすぐ見据える瞳が訝しげに
「……それともあたしとふたりは嫌ってこと? そうならはっきり言いなさいよ!」
まくしたてるように吐き出した杏はさっと門の外に出ていった。長い髪の軌跡がスローモーションのように宙を舞う。
「杏さん!」
遅れて良太も敷地を出た。小走りに追いついて杏の手を取る。引き寄せる。頭の片隅にまだここが彼女の実家前であるとよぎったけど、手を振り
「俺も、杏さんといたいよ。杏さんじゃなきゃ嫌だ」
果たして杏は何も言わなかった。顔を伏せているので良太の告白をどう思ったのかもわからない。心に響かなかったか、さらに不快にさせてしまったのか。
人目を気にする彼女の手前、耳元に顔を寄せていたのは十秒にも満たなかったのに。まずは謝った方がよかっただろうか……。
良太が頭の中でぐるぐる考えていたのは実際にはほんの瞬きをする間だったのかもしれない。やがて彼女は僅かに顔を上げた。
「……じゃあ、明日はどうする? どこか、行く?」
頬がうっすら赤く染まっている。もしかすると夕方だからそう見えている可能性も捨てきれないけど、ここは都合よく解釈してしまおう。きっと正しいはずだから。
「――どこでも。杏さんが一緒ならどこだっていいよ」
「あのね、そういうのが一番困るの」
振り解かれるかと危惧した手指はしっかりと青年の手を握り返してきた。照れ臭そうに微苦笑を浮かべる彼女に良太は「だって本当のことだし」と破顔した。
* *
少年は細く開けていたカーテンをさっと閉めた。ずっと抱いていた疑問を解くべく意気込んで迎えた今日はあっという間に終わってしまった。しかも一日一緒に過ごしてみたのに疑問はやっぱり疑問のままだった。
なぜ、あいつなんだろう。
あいつのどこがいいんだろう。
さっきだって門のところで言い争ってるみたいに見えたし、どこからどう見てもお似合いとは言えないふたりだ。わざわざ家を出てまで一緒にいたいと望む相手には到底思えない。
「
のんびりした声が背後から飛んできた。振り向くと弟が扇風機の前を陣取っていた。エアコンが早く効くように風を循環させる目的でつけているのにあれでは全く意味がない。
「杏ちゃん、まだいる?」
「もう帰った。……あいつまた怒らせたっぽいな。走って出ていった」
「あー。なんか想像つく。悪いやつじゃないけどちょっと頼りないよな〜」
「観覧車だってさぁ、まさか高いところが苦手なんて思わないじゃん。せっかくお膳立てしてやったのにおれらの努力は水のあわでさ。杏ちゃんにはすげえ怒られるし」
「……おれは知ってたけどな」
「えっ!?」
――あいつが高所恐怖症だということは知っていた。杏から新しい住所を教えてもらったとき「どうせなら高層階にしたらよかったのに」と話したらそんな感じのことをちらっと言っていたから。すぐに違う話題になってそれが事実かどうかはちゃんと確かめられなかったのだけど。
だから今日は絶好のチャンスだった。本当かどうか試してやれと思った。観覧車なんて絶対に安全が保証されているアトラクションだし、大好きな叔母を自分たちから取り上げた男をちょっと困らせてやりたかったのだ。結果怒られる羽目にはなったけどあいつにはいい気味だとも思った。こちらを子ども扱いし、さもわかったふうに説いてくるやつなんて大嫌いだ。
天井を見つめる視界の端に弟の顔が現れた。「なんで教えてくれなかったの」と書いてあるのがしっかり見てとれる。驚愕に加え、微かに不満も混じっているのを見つけた
「敵を
「うわ、ひでぇ。『デートと言えば観覧車が定番、お約束』って
「やめろ気持ち悪い。……あのときおまえがそう言い張ってくれたからあれだけで済んだんだよ。知ってたなんてバレてみろ。多分父さんにまで話がいってたぞ」
「う……それはイヤだ」
「あーあ。杏ちゃんと出かけるの楽しかったのにな」
ぼやきに近い独り言が耳に届く。全くもって同感だった。が、敢えて反応はせず
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