7月

第7話 虚ろな氷の迷宮にて

「馬鹿じゃないの!?」


 怒気に満ちた言葉が頭の上からのしかかってきた。力なく顔を上げた良太りょうたの目の前にドンと五百ミリのペットボトルが置かれた。こまかな汗をかいた青い側面には白抜き文字で商品名が印字されている。せっかく買ってきてくれたのに申し訳ないと思ったがとても口にする気にはなれず、感謝の言葉もそこそこに良太は再び丸テーブルに身を伏せた。まだ少し目眩がする。


「良太くん、だいじょうぶ?」

「だ……」

「心配することないよいく。ちょっと酔っただけなんだから。自業自得」


 青年が言葉を紡ぐより早くあんがさっと返答した。心配そうに寄り添っていた郁は半信半疑の面持ちで叔母を見上げる。そんな甥を一瞥いちべつし、むっと眉根を寄せた杏は腕組みしてそっぽを向いた。


「おれ、あんな高速回転するコーヒーカップ初めて見た! やるなぁ、おっさん!」


 明るい笑い声が後頭部に刺さる。気配がそばに近寄るのを待って顔を上げると視線の先にあったのは端正な面立ちの少年だ。ストローの刺さった大きな紙コップを片手に、口角がにんまり上がっていた。

 彼の向こうにも容姿の似通った少年がいて、同じように紙コップを手にしているがその顔には笑みはない。何かを訴えるようにじっと見つめてくる瞳は、良太と目が合った途端ふいと逸らされた。


 双子の彼らは郁の兄にあたる。真面目な顔つきの方が長男のじん、にやにや笑顔を振りまいているのが次男のはるだそうだ。なるほど、バレンタインのチョコレートを山ほど貰うのも納得の容姿である。無邪気で天使のような郁と比べると二人ともどこか印象を受けるが、小学六年生ともなればこれで普通なのかもしれない。


 近くで蝉が鳴いている。パラソルの下から眺める景色は強い日差しに照らされ白く眩しかった。七月半ばの三連休初日。頭上に広がる蒼穹は濃く青く、いよいよ夏到来という感じがする。

 聞けば夏休みに先立ってやってくるこの連休は甥たちと出かけるのが杏の恒例行事になっていたそうだ。


「今年はもういいよ。なんとなく続けてきた程度のものだしあの子たちも大きくなったし。あたしが家を出たのはいいきっかけだったと思う」


 そう言って杏は肩をすくめていた。良太はしばし思案したのち「きっと楽しみにしてるんじゃないかな」と継続を提案した。そうして相談の結果みんなで遊園地に繰り出すこととなった。




 鮮やかな緑の垣根の向こうには趣ある石畳が広がっていた。ジェットコースターを始めとする数々のアトラクションや売店前には行列ができている。ああ、郁と一緒に乗ろうねって約束したのがまだ幾つもあるんだっけ。

 よろよろとペットボトルを掴んだ。意を決して口に含んだスポーツ飲料はすっかり温く、喉をやさしく滑り落ちていった。胸のむかつきもだいぶ治まったようだ。

 蓋を閉めたところでようやく周りに意識が向く。良太の隣には双子しかいなかった。


「あれっ、杏さんと郁くんは?」

「先に行ったよ。おっさんもう大丈夫? おれら案内しよっか?」

「……あのさ、おっさんじゃなくて良太くんって呼んでもらえると嬉しいかなぁ」

「なんで? どこからどう見てもおっさんじゃん。もしかして自分ではおっさんと思ってなかったりする? ダメだぜ〜認めないと。な、おっさん」


 あっけらかんと話すはるは頭の後ろで組んでいた手を解くと青年の背をばしばし叩いた。それは確かに正論だけど……。肯定も否定もできず良太は引き下がるしかなかった。かろうじて笑みを形作る口の端が引きつる。




 おもむろにじんが立ち上がった。目が合うと一言「こっち」と告げ、なんの躊躇ためらいもなく日向ひなたに踏み出す。振り返ることなくすたすた歩いていく兄をはるもぱっと追いかけた。が、一瞬後あっと叫んだ彼はくるりと反転し良太の手を掴んだ。


「おっさん、こっちこっち!」


 有無を言わせず引っ張られていった先はこぢんまりとした白い建物だった。壁にはオーソドックスな西洋のお城がファンシーなタッチで描かれ、いたるところに雪の結晶が散りばめられていた。上部に掲げられた看板に並ぶ文字は〝アイスラビリンス〟。


「……ここ?」

「そーそー。頑張れば間に合うんじゃないかな~。グッドラック!」


 何を頑張れば何に間に合うのか――尋ねる間もなく中に押しこまれた良太はあたりをきょろきょろ見渡した。どうやらここはウォークスルータイプのアトラクションらしい。つまりスタートした時間に差があっても頑張って早足で進めば追いつける。

 場内には氷柱や氷像を模した造形物が並んでいた。夜の設定らしく頭上には無数の星がきらめき、オーロラまで出ている。幻想的にライトアップされた氷像はチープな造りながらまるで本物の氷のようだった。

 何より寒い。

 とてつもなく寒い。

 一気に体温を奪われた良太は二の腕をさすりながら逃げ出すように先を急いだ。氷点下の世界をのんびり楽しむ人々の間をすり抜け、ビニール製の暖簾のれんをくぐる。

 短いトンネルを抜けると次の部屋は白く明るかった。冷凍庫ではなくなったが通路は全面鏡張り、乱反射する光の中で両脇に無数の自分が並んでいた。良太は左右反転した己と手を繋ぎながら慎重に進んでいった。


「あー、また行き止まり……」


 四度目の袋小路に引っかかったところで目の前の鏡面に手をついた。もはや追いつくどころではない。方向感覚はとっくに失ったし一体どこが道でどこが壁なのか……。

 溜息をついているとふと背後に映る影に気づいた。いつの間に来たのやら、にこっと人好きのする笑みを浮かべた端正な少年につられて良太も口の端を上げる。


「えーと、陽くんだよね。もう杏さんたちは出てきたのかな。俺があんまり遅いから迎えに行ってこいって?」

してるようだから言っておいてやる。おまえ、杏ちゃんと全然つり合ってない」

「……え?」


 口を笑みの形に開いたまま良太は固まった。聞き間違いでなければ今とんでもないことを言われたような。少年は笑顔を引っこめ片手を腰にやった。すうっと半眼を閉じたその顔はが良いだけになかなか凄みがある。


「おまえみたいなのが杏ちゃんに相応しいわけないだろう。朝から迷惑ばかり。杏ちゃんを怒らせるわ困らせるわ、それで本当に自分が相応しいとでも思ってるのか? 全然、笑えない」


 再び空気が凍った気がした。

 まるで仕組まれたかと錯覚するほどあたりに人気ひとけはない。無数に広がる自分たちの影に囲まれ、いつ終わるとも知れない沈黙と緊張に支配されている。




 やがて良太は深い息をついた。


「……一理あるかもしれないね。俺も釣り合ってるなんて思ってないよ。時々、なんで俺なんだろうなって不思議に思うし」

「それ、バカにしてるのか? 自惚うぬぼれるなよ」


 自惚れるなんてと青年は慌てて両手を振った。これは純粋に素直な思いだ。他意は全くない。どうしてと聞いてみたい気持ちはもちろんあるし、聞いたら赤面して答えをはぐらかすかななんて想像してみたりもする。けれど実際に問いただす未来はきっとこない。理由を知ることにあまり意義を感じないから。


「ひとつわかるのはさ、相応しいとか相応しくないとかそういう考え方は杏さんはしないよ。人を値踏みする女性じゃないのはきみも知ってるだろう? 俺の場合はだけど、杏さんと一緒にいたいからいるしそこは多分杏さんも同じなんじゃないかな。俺が不甲斐ないから面倒かけてる自覚もあるけどね。そこはもっとしっかりしないとなぁと思って……あれ、陽くん?」


 少年は相変わらず半眼を閉じていた。先ほどと違うのは攻撃的な空気が薄れていることと、どこか嫌そうな感情を滲ませているところ。


「自惚れの次はノロケ?」

「のっ……! い、いやそんなつもりは」


 良太はまた慌てて手を振った。果たしてどのくだりがそう受け取られてしまったのだろうと自分の発言を思い返すもよくわからない。

 少年が大きな溜息をついた。そうして腕を組み、ふいと顔を背ける。


「……どうせすぐに見限られるに決まってる」


 面白くなさそうに唇を尖らせるその様を眺めていると、脳裏に郁が浮かんだ。彼も時々こういう顔をする。直近だと授業参観の後で杏に連れられやってきた際のこと。不満も露わに「もっと遊びたかった」と言って。

 目の前の彼は難しい言葉をいっぱい知っていて、背丈も良太の肩くらいある。もう六年生、されどまだ六年生。


「陽くん……杏さんに帰ってきてほしい?」


 瞠目したように見えたのは気のせいか――。

 良太が囁いた次の瞬間、彼は弾かれたように振り向いた。眉間に力を籠め、ぎらりと音のしそうな目つきで青年を睨みつける。あまりの剣幕に息を呑んだ良太の前で彼は意外な名を叫んだ。


!」

「はいはーい。話終わった?」


 通路の向こうからのんびり声が返ってきた。一拍置いて少年の肩越しにひょこっともうひとり少年が現れた。ぎょっと目を剥く青年の前で彼はにんまり笑みを浮かべ、唇を真一文字に結ぶ少年と肩を組む。明らかに同じ顔が並んでいるがこれは明らかに鏡像ではない。

 真顔の少年は隣に一瞥をくれる。


「……?」

「今からだとギリってところかな〜。おっさん超のんきだからさぁ。ま、一応行ってみよっか」

「あれっ……きみが、陽くん? え、じゃあ今まで俺が話してたのは、仁く……」



 話し終わらないうちに良太は陽に手首を掴まれた。またも引きずられるようにその場を後にし、鏡の迷路をあっという間に抜けた。園内を猛スピードで駆けていくとやがて長蛇の列にぶち当たった。なんの列か確認する間もなく、陽は良太を連れてその脇をどんどん前の方へと突き進んでいく。

 最前列、透明色のゴンドラに乗りこもうとしている二人組を見つけた少年は歓声を上げた。


「ギリギリセーフ!」

「えっ……陽!? 良太も、どうしたの!?」


 突然響いた声に驚き振り向いたのはまさに杏だった。ようやく止まったのと無事再会できたのとでほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、良太は陽からタックルを受けた。


「すみませーん。このふたりが乗りまーす。フリーパスも持ってるんで!」

「えっ!? ちょっ……陽くん!?」

「陽! 待って」


 ふたりをゴンドラに押しこんだ陽は、慌てふためく杏に手をひらひら振って応える。それからそばで右往左往していた郁を捕まえ風のように走っていった。





 * *





「間に合ったのか」


 頭ひとつ分の身長差がある兄弟の後ろから声が飛んできた。のんびり歩いてきた兄に陽は肩を竦めた。


「もうすぐだぜ。しかも運よくシースルー。ほんとラッキーなやつだよな」

「……ねえ、高いところがこわくてもシースルーってラッキーなの?」


 下から割りこんだ声に双子が揃って目線を下げた。追及の目の前に郁はもじもじと両手を組み合わせる。


「良太くん、高いところダメなんだよ。だからさっき、良太くんが休んでる間にみんなで乗ろうかって言ってたの。ぼくも乗りたかったな」


 しばしの沈黙の後、兄弟は示し合わせたように目の前のアトラクション――を仰いだ。透明のゴンドラがちょうど頂上に差しかかっていた。

 ――悲鳴が、聞こえる。




「あああ杏さぁんんんん! 死ぬときは一緒だぁぁぁ!」









▼イメージイラスト

https://kakuyomu.jp/users/ritka/news/16818792435726779575

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る