第3話:過去の亀裂

朝の光が雪原を照らし、キッチンには珈琲の香りが漂っていた。凛は窓辺に立ち、外の景色を見つめている。一晩で雪が積もり、庭は一面の白銀世界だ。


「久しぶりに見る景色だね」と凛は呟いた。


誠一はテーブルで黙って新聞を読んでいた。彼は少し咳き込み、それを抑えるように胸に手を当てる。


「大丈夫?」と凛。


「ああ」と短く返す父。


朝食はそんな簡素な会話と共に過ぎていった。


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書斎では、二人で絵本の続きを描き始めていた。凛はデザインを担当し、誠一は絵を描く。黙々と作業する中で、時折「ここはどう?」「もう少し明るい色にしてみるか」と、仕事に関する会話だけが交わされる。


その重い沈黙を破ったのは凛だった。


「お父さん、十年前のこと…話してもいい?」


誠一の手が止まる。彼は窓の外を見た。


「話すことはない」


「でも私は…」凛は言葉を探すように一瞬黙った。「あの日、もし私が母を病院に連れていったら…」


フラッシュバック。十年前、東京のデザイン事務所の面接の日。美和は「大丈夫、行っておいで」と笑顔で送り出した。しかし、その日の夕方、突然の容態悪化で美和は病院に運ばれ、凛が駆けつける前に息を引き取った。


「美和は、お前の選択を望んでいた」と誠一は静かに言った。


「でも結果的に…」凛は言葉に詰まった。


誠一はスケッチブックに向き直り、再び絵を描き始めた。「過去は変えられない」


凛は父の横顔を見つめた。彼の表情からは何も読み取れない。無表情に徹し、ただ絵にだけ集中している。


「私、あの日以来ずっと…」


その時、誠一の激しい咳が凛の言葉を遮った。彼は立ち上がり、「少し休む」と言って書斎を出て行った。


残された凛は、父の描きかけた絵を見つめた。小鳥が川の流れに乗り、未知の土地へ向かうシーン。凛は思わずその小鳥に触れた。「私…」


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誠一は自室で薬を飲んだ。窓際の椅子に座り、深呼吸する。痛みはまだ続いている。彼はベッドサイドの引き出しを開け、一つの封筒を取り出した。


「凛へ」


美和の手紙だ。彼は封筒を見つめ、そして決意したようにポケットに入れた。


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午後、凛は台所で夕食の準備をしていた。彼女が皿を洗っていると、誠一が静かに近づいてきた。


「これ」


誠一は封筒を差し出した。


「これは…」


「美和からだ。読むかどうかはお前次第だ」


凛は濡れた手を拭き、封筒を受け取った。「お母さんから…?」


「十年前に書いたものだ。渡し忘れたらしい」


「なぜ今まで…」


誠一は黙って台所を後にした。「夕食は六時に」とだけ言って。


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凛は自室で一人、封筒を前に座っていた。開くべきか迷う手。十年前の母からの言葉。彼女は深呼吸して、そっと封を切った。


中から一枚の便箋が出てきた。美和の筆跡だ。


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「凛へ


あなたが選んだ道を歩いてください。

私はいつでもあなたを誇りに思っています。

自分を責めないで。

春になったら、また家族で笑いましょう。


そして、誠一にも伝えてほしいことがあります。

彼は頑固で、自分の気持ちを言葉にするのが苦手。

でも、あなたという小鳥が飛び立った日、

彼は密かに誇らしく思っていたのです。

二人とも、言葉にできなくても、心は通じているのだと信じています。


帰り道を照らす光になりますように。

―お母さんより」


---


凛の頬を涙が伝った。十年間ずっと抱えていた罪悪感。母が最後の瞬間に自分を待っていたという思い。それが美和自身の言葉で解き放たれていく。


「お母さん…」


凛は手紙を胸に抱き、静かに泣いた。窓の外では、雪が静かに降り始めていた。


---


夕食時、凛は少し赤い目をしていたが、誠一は何も訊ねなかった。二人は黙って食事をしていたが、その沈黙は昨日までとは少し違っていた。少し柔らかく、少し暖かい空気が流れていた。


「お母さんからのメッセージがあったわ」


凛は勇気を出して言った。「お父さんのことも書いてあった」


誠一は箸を置いた。


「お父さんは、私が東京に行くことを誇りに思っていたって」


誠一は無言で頷いた。しかし、その目に涙が浮かんでいるのを凛は見逃さなかった。


「お父さん、あの日…私が言えなかったことがある」


「何だ」


「ありがとう、って。私の夢を応援してくれて」


誠一は再び頷くだけだったが、その表情には微かな安堵の色が見えた。


その夜、二人は書斎に戻り、絵本の続きを描いた。言葉は少なかったが、筆と紙が生み出す音だけで、二人の間には何かが通い始めていた。


---


三日目の朝。凛は書斎で一人、父の古い絵本を眺めていた。『小鳥の旅立ち』シリーズ。誠一の代表作だ。


そこに誠一が入ってきた。彼は何かを持っていた。


「これ」


それは古いアルバムだった。「美和が作ったものだ」


凛はそれを受け取り、開いた。そこには彼女の幼い頃の写真が並んでいた。誠一と美和に囲まれ、笑顔で描いた絵を見せる幼い凛。


「この絵…」凛は一枚の写真に見入った。自分が5歳の頃に描いた、小鳥の絵だ。


「覚えているか」と誠一。「お前が初めて描いた絵だ。それを見た美和が『この子は才能がある』と喜んでな」


「そうだったんだ…」


「お前の描く小鳥を見て、『春に還る』のアイデアが生まれたんだ」


凛は写真を見つめたまま、「私、全然知らなかった」と呟いた。


「言わなかったからな」と誠一は素直に認めた。


二人は写真を見ながら、少しずつ昔の記憶を共有し始めた。言葉は少なく、説明は不十分でも、二人の間にあった凍てついた氷が、少しずつ溶け始めていた。


その時、誠一が突然激しく咳き込み始めた。止まらない。彼はハンカチで口を押さえたが、凛はそこに赤い染みを見た。


「お父さん!」


「大丈夫だ…」


誠一はそう言いながらも、椅子に崩れるように座り込んだ。


「病院に行こう」と凛が言った。


誠一は首を振った。「まだだ。絵本を…」


彼は苦しそうに呼吸しながらも、スケッチブックに手を伸ばした。「終わらせなければ…」


凛は父の手を取った。「わかった。でも少し休んで」


彼女は父を寝室まで案内し、横になるよう促した。そして病院に電話をした。「明日、必ず連れて行きます」と約束して。


誠一のベッドサイドに戻った凛。父はすでに眠りについていた。疲れ切った表情だが、どこか安らかだ。凛は椅子に座り、父の寝顔を見守った。


「お父さん、絶対に春まで生きて」


彼女は静かに願った。窓の外では、雪が降り続いている。しかし空の一角に、わずかな青さが見え始めていた。


(つづく)

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