第2話:変わらない家

「何も変わってないね」


凛は十年ぶりに足を踏み入れた実家のリビングを見回した。古い木の家具、磨き込まれた床、窓から差し込む青白い光——すべてが記憶の中のままだった。時間が止まったような錯覚を覚える。


誠一は娘の荷物を玄関に置き、無言でキッチンへと向かった。「お茶を入れる」とだけ言って。


凛は暖炉の前に立ち、そこに飾られた写真に目を向けた。美和の写真。十年前と同じ場所に、同じ笑顔で。凛は言葉を失った。指先で額縁に触れようとして、途中で手を引っ込めた。


「ごめんね、お母さん」


心の中でそう呟いた。


---


夕食の準備をする誠一の傍らで、凛はぎこちなく手伝っていた。


「これでいい?」と凛が訊ねる。


「ああ」と短く返す父。


会話は必要最低限。沈黙が二人の間に横たわる。


「お父さん、具合はどう?」


診断書に書かれていた内容について、凛は直接訊ねることができなかった。誠一は包丁を止めることなく答えた。


「普通だ」


それ以上は何も語らない。


---


テーブルに向かい合って座る父娘。凛は箸を持ったまま、誠一の顔を観察していた。痩せた頬、深くなったしわ、白髪——確実に老いていた。しかし目の奥に宿る頑なさは昔のままだ。


「美味しい」と凛が言うと、誠一は小さく頷くだけ。


沈黙の中で食事が続く。時折、風が家を揺らす音だけが響く。


やがて誠一が唐突に口を開いた。


「絵本を完成させないか」


凛は箸を止めた。「え?」


「『春に還る』だ。最後のページが決まらなくて、中断していたんだ」


凛は困惑した表情で父を見つめた。「なぜ今?」


誠一は一瞬だけ目を伏せ、「時間がないから」と簡潔に答えた。


その言葉の真意を察した凛は、ゆっくりと箸を置いた。彼女はしばらく考え込み、そして決意したように顔を上げた。


「お父さん、実は私…」


凛は深呼吸して、「妊娠してるの。六ヶ月」と告げた。


誠一の手が一瞬止まった。驚きの表情が一瞬浮かび、すぐに無表情に戻る。彼は娘の腹を一瞥し、「そうか」と小さく呟いた。そして少しの間を置いて、「おめでとう」と付け加えた。


「ありがとう」と凛。


再び沈黙が訪れた。


---


食事の後、誠一は書斎へと凛を招いた。埃をかぶった机の上には、古いスケッチブックが開かれていた。『春に還る』の原稿だ。


凛はそれを手に取り、ページをめくった。色鉛筆で描かれた、繊細な線画。小鳥が巣から飛び立ち、厳しい冬を越え、そして…最後のページは白紙のまま。


「小鳥が家を離れ、冬を越え、春に帰る物語」と誠一が説明した。


凛は小鳥の絵をじっと見つめた。どこか懐かしい、自分に似た何かを感じる。「この小鳥は…私?」


誠一は黙って窓の外を見た。


---


**フラッシュバック**


十年前、同じ書斎。美和と誠一が向かい合っている。


「この小鳥は凛のことよ。いつか帰ってくると信じて」と美和が言う。


「帰ってこないかもしれない」と誠一。


美和は優しく微笑んだ。「それでも描き続けて。いつか彼女に届くから」


---


「美和が考えたんだ。『小鳥は凛なのよ』と」


誠一は深い息を吐いて続けた。「最後のページをどう描くか…決められなかった。小鳥が戻ってきた後の景色が見えなかったから」


凛の頬を一筋の涙が伝った。彼女はそれを拭うこともせず、ページをめくり続けた。十年前、自分が東京へ旅立つ前、この絵本は既に存在していた。ただ、彼女は知らなかった。


「完成させよう」と凛は言った。「一緒に」


誠一はゆっくりと頷いた。そして棚から画材を取り出し始めた。「お前はデザインを。私は絵を描く」


凛は父の背中を見つめた。かつて憧れた絵本作家の姿。小さくなった背中だが、その手の動きは昔と変わらない。確かな線を引く指先。


「私、お茶を入れてくるね」と言って立ち上がった凛。部屋を出る前、彼女は振り返り、書斎の光景を目に焼き付けた。そこには十年前と同じ、静かに創作に没頭する父の姿があった。


---


夜、凛は客間のベッドに横たわっていた。天井を見つめ、今日一日を思い返す。


「帰ってきた…」


彼女は腹に手を当てた。子どもは元気に胎動している。


「あなたにはおじいちゃんがいるのよ」と小さく語りかける。「頑固で、無口で、でも…」


言葉が続かない。十年の空白。埋められない時間。そして残された時間の少なさ。


凛はベッドから起き上がり、窓辺に立った。外は雪が降り続いている。遠くに見える森は白く染まり、月明かりに照らされて幻想的だ。


この景色も、十年前と変わらない。


変わったのは自分自身だけなのかもしれない、と凛は思った。東京で、デザイナーとして、一人の女性として、そして今は母親になろうとしている自分。


でも父の前では、いつも少女のままだ。


彼女は深く息を吐き、明日からの日々に思いを馳せた。雪の向こうに見える春の光を想像しながら。


---


誠一は自室のベッドで横になれずにいた。咳が止まらない。痛み止めを飲んだが、効き目は薄い。


彼は窓の外を見た。凛の部屋の明かりがまだついている。


「戻ってきたか…」


その事実をようやく実感していた。そして、彼女のお腹の中の命。自分の孫になるはずだった小さな命。


「会えるだろうか」


春まで生きられるのか。孫の顔を見ることができるのか。誠一は分からなかった。ただ、今はやるべきことがある。美和との約束。未完の絵本。


彼は枕元のスケッチブックを手に取り、最後のページを見つめた。白紙のキャンバス。小鳥が戻ってきた後の景色。


「見えてきたかもしれないな」


誠一は小さく微笑んだ。十年ぶりの笑顔だった。


(つづく)

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