第4話:最後の一頁
病院の待合室。凛は硬い椅子に座り、診察室から出てくる父を待っていた。窓の外では雪が降り続いている。しかし、昨日までと違い、今日の雪は少し柔らかく、溶けやすいように見えた。
診察室のドアが開き、誠一が出てきた。顔色は悪いが、表情は穏やかだ。
「どうだった?」と凛が訊ねる。
誠一は小さく首を振った。「変わりない」
そう言いながらも、彼は凛に見えないよう、手の中の処方箋を握りしめた。痛み止めの量が増えていた。
帰り道、二人は車の中で黙っていた。凛は運転しながら時折、助手席の父を見る。誠一は窓の外を眺めているだけ。
「雪、少し溶け始めてるね」と凛が会話を始めた。
「ああ」と誠一。「二月も終わりだからな」
そして少し間を置いて、「三月に入れば、光の色が変わる」と付け加えた。
凛はその言葉に何か感じるものがあった。「光の色?」
「北海道の三月の光は、春を告げる色なんだ。まだ雪は解けなくても、光が違う」
それは珍しく、誠一から語られた言葉だった。凛は思わず微笑んだ。「絵本にそんな表現があったような」
誠一も小さく頷いた。「『小鳥の旅立ち』の三作目だ」
「覚えてるよ。子どもの頃、何度も読んでもらったもの」
そんな会話をしながら、二人は家路についた。
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午後、書斎では再び絵本の作業が続いていた。凛は父の体調を気遣い、「無理しないで」と声をかけるが、誠一は黙々と描き続けた。
「もう少しで完成だ」と誠一。
確かに、『春に還る』は最後の一頁を残すのみとなっていた。小鳥が長い旅を終え、再び故郷の森へと戻ってくるシーン。しかし、その最後の一頁をどう描くべきか、二人はまだ迷っていた。
「小鳥が戻ってきて、そして…」と凛が言いかける。
「そして、何を見るんだ?」と誠一が問いかけた。
二人は黙り込んだ。それは絵本の問題だけではなく、彼ら自身の物語でもあった。凛が十年ぶりに戻ってきて、そして何を見出すのか。
「お父さん、私が東京に行った時、本当はどう思ってたの?」
凛は勇気を出して訊ねた。誠一は絵筆を置き、窓の外を見た。
「寂しかった」
それは誠一が初めて素直に認めた感情だった。
「でも、お前の道を行くべきだと思った。美和もそう言っていた」
凛は静かに父の言葉を受け止めた。「私も寂しかった。でも、認めてもらえたことが嬉しかった」
そして彼女は自分のスケッチブックを開き、何かを描き始めた。「私が考える最後の一頁」と言いながら。
誠一はそれを黙って見守った。
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夕食後、凛は父を書斎に残し、近所のコンビニへと出かけた。明日の朝食用の材料を買うためだ。
外の冷たい空気が頬を刺す。凛は空を見上げた。雲間から少しだけ星が見えている。彼女は深呼吸した。澄んだ空気が肺を満たす。東京では味わえない感覚だ。
コンビニでの買い物を終え、家に戻る道すがら、凛は突然、母の言葉を思い出した。
「心は通じているのだと信じています」
美和の手紙の言葉だ。父と自分は、本当に心で通じ合えているのだろうか。言葉にできなくても、理解し合えているのだろうか。
凛は足を止め、夜空を見上げた。そこに月が出ていた。薄い雲の向こうから、優しい光を放つ月。
「お母さん…」
彼女は思わず呟いた。そして再び歩き始めた。家に帰り着くと、書斎の明かりがまだついていた。
「お父さん、まだ起きてる?」
ドアを開けると、誠一が机に突っ伏していた。
「お父さん!」
凛は急いで駆け寄った。誠一は意識があったが、とても苦しそうだった。咳が止まらず、呼吸が浅い。
「病院に行こう」と凛が言うが、誠一は首を振った。
「もう…いい」
彼はそう言いながら、スケッチブックを指さした。そこには、ほぼ完成した最後の一頁が描かれていた。小鳥が春の風に乗って故郷の枝に戻り、下を見下ろしている。
「あとは…」
誠一は言葉を続けられず、咳き込んだ。凛は父をベッドまで運び、寝かせた。彼女は迷った末、救急車を呼ぶことをやめた。父の意志を尊重することにしたのだ。
「お父さん、少し休んで。また明日」
誠一は弱々しく頷いた。「あと少しだ…」
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夜が深まった。凛は父の部屋で付き添っていた。誠一は眠っているが、時折呻き声を上げる。彼女は父の手を握り、何も言わずに傍にいた。
真夜中を過ぎたころ、誠一が目を覚ました。
「凛…」
「ここにいるよ」
「スケッチブック…持ってきてくれないか」
凛は書斎から『春に還る』を持ってきた。誠一はベッドに起き上がり、最後の一頁を見つめた。
「完成させなければ」
「お父さん、無理しないで」
しかし誠一は執念深く、絵筆を手に取った。彼の手は震えていたが、目は澄んでいた。
「小鳥が見下ろすと…」
彼は描き始めた。小鳥の視線の先には、美しい花々が咲き乱れる春の庭。そして庭の中心には、新しい巣が。
「これは…」と凛が言いかけると、誠一は静かに続けた。
「小鳥は自分の巣を見つけた。そこにはもう一羽の小鳥がいて…」
彼は絵筆を動かし、もう一羽の小さな鳥を描き加えた。
「新しい命だ」
凛は思わず自分の腹に手を当てた。そして涙が頬を伝った。
「お父さん…」
誠一は絵筆を置き、凛の手を取った。
「ありがとう。戻ってきてくれて」
窓の外に、月の光が差し込んでいた。雪はすっかり止み、空には星が瞬いている。
「お父さん、もう休んで」
誠一は頷き、横になった。彼は穏やかな表情で目を閉じた。
「明日は…もう少し暖かいだろう」
それが誠一の最後の言葉となった。
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朝、凛が目を覚ますと、窓の外に太陽の光が差し込んでいた。明るい光。三月の光。
彼女は父の部屋へと向かった。誠一はベッドで、まるで眠っているかのように横たわっていた。しかし、その胸は動いていなかった。
凛は父の傍らに座り、その手を取った。冷たい。彼女は言葉を発することができなかった。ただ黙って、父の穏やかな顔を見つめた。
やがて、彼女は『春に還る』のスケッチブックを手に取った。最後の一頁。誠一が命を削るように描き上げた絵。小鳥が見下ろす春の庭と、新しい命。
凛は原稿を抱きしめて泣き崩れた。
窓の外では、雪解けが始まっていた。屋根からは水滴が落ち、太陽の光に輝いている。それは確かに、春の光だった。
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葬儀は小さく行われた。町の人々、かつての編集者、そして東京から駆けつけた凛の同僚たちが誠一を見送った。
式の後、凛は父の書斎に一人で座っていた。そこには二人で作り上げた『春に還る』の原稿があった。完成した物語。彼女はページを一枚一枚めくった。
そこには、彼女自身の物語があった。家を離れ、冬を越え、そして春に帰ってきた小鳥の物語。父との和解の物語。そして、新しい命の物語。
凛は決意した。この絵本を出版しよう。父の遺志として、そして三人の物語として。
彼女は窓の外を見た。雪解けが進み、庭の一角に小さな芽が出始めていた。誠一が前日に言っていた通り、光の色が変わっていた。それは春を告げる光だった。
「お父さん、お母さん…」
凛は原稿を胸に抱き、静かに微笑んだ。彼女の中で、言葉にならなかった感情が、ようやく形を得ていた。
(つづく)
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