フィデリオの婚約

✧✧✧


屋敷に戻ったフィデリオは、ラウラの様子に違和感を覚え彼女を書斎へ連れて行った。

執事のセルジュにミルクティーを頼み、それにカルダモンと砂糖をたっぷりと加える。

部屋の中に香辛料と甘い香りが漂い始めた。


「ラウラお疲れ様。魔女と話は出来たかい?」

「はい……」

「これを飲むと少し目が覚めると思うよ」


テーブルに置かれたティーカップから、柔らかな湯気が立ち昇っている。

ラウラはゆっくりとカップを手に取り、そうっと口をつけた。


「美味しい……」

「よかった。この配合だけはいつもセルジュに褒められるんだ」


フィデリオが安心したような表情を見せた。

机の上には魔術関連の本が積まれている。

これからロクセラーナをどうするべきか、調べていたのだろう。

精霊の石がフィデリオの胸元で静かに揺れている。


「ロクセラーナはフィデリオ様が外に来ているってわかってました……」

「それはすごい、やっぱり魔女は怖いな。あの塔は魔術が効かないよう至るところに封印が刻まれてるんだけど、それでも心配でね」

「心配してくれたんですね……」


なんだか嫌味っぽくなってしまった。

素直に「ありがとう」と言えばよかっただけなのに…。

まるで拗ねた子供みたいな言い方に、ラウラは自分自身が嫌になってしまう。


「もちろんだよ。ラウラ、魔女に何か言われたのかい?」

「えっ、どうしてですか?」

「目が真っ赤だよ」


ラウラは慌てて顔を押さえた。

まるで泣いたみたいに目の周りが熱く、鼻が少し詰まっている。

ロクセラーナから耳にした婚約話は、まだラウラの胸の中で渦を巻いていた。


出発前、フィデリオ様はカール侯爵家との付き合いが長年続いていると話していた。

一度は断ったという縁談から数年。

そう考えると、今回の話は自然な流れなのかもしれない。

いつ皆に話すつもりなんだろう……。

明日の朝? それとも、ロクセラーナのことが片付くまでは言わないつもり?


早く話してほしいのに、その言葉を聞くことが怖くてたまらない。

でも、この落ち着かない感情をいつまでも抱えているのも辛かった。

ラウラの心は、知りたい気持ちとそれを避けたい気持ちが揺れ続けていた。


「ラウラ? やっぱりちょっとおかしいね。魔女にあてられたのかも」


頬を押さえているラウラの顔を、フィデリオは正面から覗き込んだ。

湖のように青い瞳と、いつもと同じ優しい声。

困った時に下がってしまうしなやかな眉。

フィデリオの視線がまっすぐに向けられ、ラウラは笑顔を作ろうとしても眉根が寄ってしまう。


「ああ、やっぱりどこか痛いのかい?」


フィデリオが焦った様子で更に身を乗り出した。

長い睫毛が何度も瞬き、瞳の中に自分が映っているのがわかる。

ラウラは、胸が押しつぶされそうになりながらやっとの思いで口を開いた。


「いいえ、大丈夫で……ぇす……ぅぅ」

「その声! 大丈夫じゃないじゃないか!」

「うぅ……」


気持ちを抑えようとしたせいで、変な声が出てしまった。

でも、普通に話そうとしたらもっと声が震えてしまう。

本当になんでもないのに、訂正しなきゃ……。


「あの……」

「待ってて。すぐにお水を」


フィデリオは慌ててテーブルのデキャンタからグラスに水を注ぎ、引き出しからハンカチに包まれた薬を取り出した。


「はいこれ。と言っても、君が作ってくれたものだけど。もったいなくて使えなかったよ」


少し照れくさそうにフィデリオは笑う。

彼が差し出したものは、ヴェル国に行く時に何かあったらと渡した万能薬だ。

首飾りもそうだが、これも余計なことだったのかもしれない……。

ラウラは大きく息を吐いた。


いくら思っていても、身分の違いは最初からわかってた。

ロクセラーナにいろいろ言われても、ちゃんと私はわかってたじゃない!

そうよ、笑顔でお祝いを言えばいいのよ。


ラウラは差し出されたグラスの水を一気に飲み干した。


「フィデリオ様、ご婚約おめでとうございます!」

「婚約……どうしてその話を?」


フィデリオはラウラの突然の言葉に眉をひそめ、困惑した表情を浮かべた。


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