バルウィン家


バルウィン家へ続く高台の道を、ラウラは黙々と進んでいた。

夕暮れの空気が、街の様子をかすかに運んでくる。

ここから見る街並みは、この国に来てからラウラのお気に入りの一つだ。

たくさんの人の暮らしを感じて、なんだか幸せな気持ちになる。

遠くから、市場の終わりを告げる鐘が聞こえてきた。


グレイスの仕事が終わる時間までまだ少し余裕がある。

ラウラは裏門へ向かう前に、屋敷の様子を確かめようと正門へ足を向けた。


領主であるフィデリオ一週間の不在は、市街に告知されていたため人の姿はない。

門番もいないのでとても静かだ。

誰もいない門を見つめながら、ラウラは今朝の出来事を思い返していた。


そういえば、料理長に抱えられて追い出されたとき、セルジュさんの姿がなかったわ。

私を運ぶあのおかしなパレードに紛れてたのかな。

でも、あのいつも紳士なセルジュさんが魔女に魅了されてる姿なんて……。


ラウラは頭の中で、セルジュが「おいだせー」と言っている姿を想像し、頭をプルプルっと振った。


うーーフィデリオ様の次に見たくないかも。


ラウラはぎゅっと顔をしかめ、そうっと正門の横に移動した。

屋敷の窓から漏れる明かりはいつもより少ない。

中に人がいる気配もあまり感じられない。

いくら人が少ないとはいえ、それでも静かすぎる気がした。


皆、大丈夫なのかしら……。


ラウラはケープの襟を少しだけ下げ、辺りの空気を吸い込んだ。

普段なら、薬草を乾燥させる爽やかな香りがここまで漂っている。

それなのに、全くと言っていいほど何も匂わない。

ロクセラーナの、あの全身に纏わりつくような濃厚な香りも感じられない。


ラウラはあの匂いを思い出し、また顔をしかめた。

思い出すだけで、喉に何か絡まった感じがする。


本の中では、『蠱惑の魔女』と書かれていたロクセラーナ。

まさか自分が本物の魔女に会うなんて……。


幼い頃、母が読んでくれた物語に出てきた魔女は、皆恐ろしい姿をしていた。

でも、ロクセラーナは違う。

人を惑わす香りが無くても、目が眩むほどに美しかった。


「……ハァ」


ラウラはフードをかぶり直し、壁沿いに裏門へ向かった。

白い野薔薇が咲く煉瓦の横を歩きながら、ちらちらと屋敷の様子を窺う。


少し進むと、白い茨の隙間から馬車が見えた。

アカシアの木で作られた、見慣れたフィデリオの馬車が停められている。

艶やかな木目が夕日に照らされ、手入れの行き届いた車輪はまるで新品のように輝いていた。


フィデリオ様の馬車だ!

この感じだと、午前中には戻ってたのね!


いつもの場所で、いつものように停められている馬車にラウラの胸は高鳴った。

ここからは見えないが、フィデリオの部屋は二階にある。

ラウラは思わず屋敷を見上げた。


フィデリオ様は何をしてるんだろう。

屋敷の様子がおかしいことや、私がいないことに気付いてるのかな……。

それとも、全然そんなことはどうでもよくて、あの大きな窓がある部屋でロクセラーナと二人きりで……。


「ん゛ーーー」


ラウラの頭の中に、考えたくもない光景が次々と浮かんできた。

裏門から追い出された時、フィデリオの部屋から手を振っていたロクセラーナの姿を思い出す。


ロクセラーナは、本当にフィデリオ様のことを好きなの?

彼女の目的が、師から貰った本の内容では全くわからなくてモヤモヤする。


フィデリオ様が誰かを好きになるのは仕方がない。

今回の魔法石の鑑定だって、それだけが理由じゃないはず。

一度は断った縁談も、また話が持ち上がることだってあるだろうし、私が知らないだけでフィデリオ様が心に決めた人がいるかもしれない……。

でも、それが『蠱惑の魔女』だなんてことは、絶対に考えたくもない。


フィデリオ様はちょっと引いてしまうくらい美形だ。

誰が見てもその外見の美しさに惹かれるけれど、それだけじゃない。

とても博識で、どんな質問でもいつも丁寧に答えてくれる。

難しい話も分かりやすく説明してくれるから、王宮にいた時より薬草に詳しくなってしまった。


でも、ちょっと薬草好きすぎる。

薬草の話になると、目をキラキラさせて少年のような表情をする。

動物も大好きだけど、子供の頃リスに手を齧られたからと今でもちょっと怖がってる。

キノコ類に目が無くて、なんでも食べようとしちゃって料理長に窘められたりとか。

深夜まで本を読みすぎて、翌朝眠そうにしているところをセルジュさんに注意されたりとか。

フィデリオ様と会ってまだ三年しか経ってないけど、たくさんたくさん知ってる……。


身分の高い貴族にも、市場の小さな店のおじさんにも、フィデリオ様は同じように耳を傾けてくれる。

その優しさは誰に対しても変わらない

私にだって、本当に優しくしてくれた。

初めて会った日から、今日までずっと……。


ラウラはここに来て、いまままで抑えていた思いが溢れ出そうになっていた。

鼻をすんっとさせて、外壁を這う白い野薔薇に目を向ける。


バルウィン家を囲むように植えられた小さな白い野薔薇。

可憐な花を咲かせるが、葉や茎には薬効がない。

香りもなく摘むとすぐに枯れ、散った花びらも道を汚すため育てる人はほとんどいない。


「この世に生まれたものには、どれも意味があるんだよ」


フィデリオ様はそんな風に、この野薔薇を見て話していたっけ……。


今はこの小さな薔薇でさえ、ラウラの胸を締め付けた。

もうこれ以上フィデリオのことを考えたくなかった。

唇をぎゅっと結び、ラウラは裏門への道を急いだ。

歩きながらふと疑問が湧く。


あれ、ちょっと待って。

私だけが追い出されたって思ってたけど……。

ネヴィルさんに運ばれてたとき、セルジュさん以外の男の人は全員集まってた。

侍女の皆は、気分が悪くなっただけと言ってた……。

もしかして私が最初で、その後にグレイスたちも追い出されたのかもしれない!

急がなきゃ!


ラウラは駆け出した。

白い茨が途切れた先を曲がると、そこには、もう裏門が見えていた。

その場で一旦立ち止まり、ケープの前のリボンをしっかりと結び直す。

フードを深くかぶり直し、静かに裏門に近づいた。

中の様子を窺うと、正門と同じように人気はなく静まり返っている。

夕暮れの空気が、いつもより重く感じられた。


誰もいないし、誰も出てこなそう……。

でも、とりあえず時間まではグレイスを待たなきゃ。

出て来なければ、一旦街に戻って皆を探すのもありかもしれない。


ラウラは裏門の横の壁にもたれかかる。

石造りの壁は冷たく、考えすぎて熱くなってしまった体には少しだけ心地良かった。


「おい! そこで何をしている?」


ラウラが大きなため息をついた瞬間、裏門の内側から声が聞こえた。

驚いたラウラは、思わず身をかがめる。


この声は誰? まったく聞き覚えがない。

屋敷にいる誰の声でもない。


ラウラの心臓が早鐘のように打ち始めた。


「こっちに来るんだ!」


知らない声が、また叫んだ。


まさか、ロクセラーナに仲間がいるの?

師からもらった本にもそんなこと書かれていなかったし、想像もしていなかった。

ラウラは頭の中が真っ白になり、身体を丸めて膝をぎゅっと抱えた。


「聞いているのか? ラウラ=ストラール!」

「えっ!?」


突然自分の名前を呼ばれ、ラウラは驚いて立ち上がる。

そして、声がした方向に振り返った。


「フィデリオ様っ!?」


そこにいたのは、魔女の仲間でもなんでもなく、鼻をつまんで子供のように笑うフィデリオだった。

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