ゆびさきで結ぶもの
第23話 前進と足踏み
春。
やわらかな日差しのなかで、新しい季節の匂いがしていた。
彼が「今年こそは卒業する」と言ってから、私たちの時間は少し変わった。
図書館での勉強、大学での実習、卒業論文の準備…ひとつひとつを真剣に、丁寧に取り組む姿は、今まで見てきた彼のどの顔よりも大人びて見えた。
「なんだかんだ大学8年目だからなぁ、ここで決めないと…笑えないしね」
笑って言うけど、誰よりも自分にプレッシャーをかけていたのは彼自身だった。
これまで、海外ボランティアで休学したり、震災の支援に入ったり――誰かのために動き続けた人。
「遅れてる」なんて言葉では語れない時間を、彼はちゃんと生きてきた。
それでも、社会はいつも「普通」を基準にする。
“普通は4年で卒業するものでしょ?”
“今さら就職して間に合うの?”
そういう声を、彼は全部背負っていた…いや、勝手に背負わされたというべきか。
わたしができることは少なかったけど、ただ傍にいることで、彼が「自分を信じる」時間を支えられたらいいなって思っていた。
「ねえ、どうする?無事に卒業できたら」
と、ある日こっそり聞いてみたら、
「うーん…やりたいことは決まってるよ。まあ、その前に就職しないとだけど、海外かな」
ってあっさり。
え?って顔したわたしに、彼はちょっとだけ眉を下げて、
「…そうなったらえん・・・だな」
と、ボソッと呟く
口の動きがはっきり読み取れなかった。
卒業して就職…海外ということは日本から離れる…離れ離れになってしまう。
遠距離って言いたかったんだろう。
わたしは彼の腕にそっと寄り添った。
そして顔を見上げて目が合った時、ニコッと微笑んでみせた。
そして『大丈夫』…そう手話で伝えた。
***
その日、彼と別れた帰り道。
伝えた『大丈夫』が、胸のなかで小さく軋んだ。
“彼のいない日常”を、わたしは知らない。
朝のLINEも、くだらないスタンプの応酬も、突然届く彼の風景写真も。
「会いたいね」のひとことが、すぐ会える距離にあったからこそ、なんの不安もなく言えた言葉だった。
“彼がいないって、どういうことなんだろう?”
別れたいなんて思ってない。
でも、わたしのなかで彼はもう“恋人”じゃなくて、“わたしの一部”になっていた。
依存とか、そういうんじゃない。
ただ――
彼が笑えば、わたしの胸もふわっとあたたかくなるし、
彼がしょんぼりすれば、わたしの心も曇る。
そんなふうに、彼の気配はもうわたしの中で“呼吸”みたいになっていた。
だから、失うわけじゃなくても、
“離れる”ってだけで、少しだけ苦しかった。
首をブルブルと振る。
今考えたって仕方ない!時間は止まったり巻き戻ったりしないんだから、先のことはその時が来たら考える!
そう言い聞かせることしかできなかった。
***
そして季節は巡り…
「卒業、決まったよ」
画面越しに見せてくれた彼の顔は、心の底から晴れやかだった。
いつものように笑って、『おめでとう!』と手話と声で伝えた。本当に、本当に嬉しかった。
…でも、心の奥がざわりと揺れたのは、きっとその瞬間だった。
彼の卒業。
それは、新しい未来の始まりであり、同時に“隣にいた彼”が、遠くの空の下へ行ってしまう予感でもあった。
久しぶりに会った彼は、どこかすでに未来を見ていた。
新しい国、新しい職場、新しい生活――
それを語る瞳がキラキラしていて、わたしの中に“誇らしさ”と“恐怖”が同時に走った。
「みちも来ればいいじゃん」
軽く笑って言ったその言葉。
わたしは笑って頷いたけど、夜になって一人になると、身体の奥からじわじわと不安が押し寄せてきて、息が詰まった。
あのときと、同じだった。
母を亡くしたあの日。
父の最期を見送ったあの日。
あの何とも言えない喪失感が、形を変えてわたしの中に蘇った。
失うことが怖い。
愛するものが、目の前から消えてしまうことが、何よりも怖い。
あの時とは違う…二度と会えないわけじゃない。そんなことはわかっている。
でも…わたしは
…ふと「中退」の二文字が浮かんだ。
逃げるんじゃない。
わたしには、彼と同じ景色を見たいという気持ちがある。
ただ、それが「今のままでは」難しい――
次の日、会う約束をしていたけれど、私は「ごめん、今日は行けない」とだけ伝え、布団をかぶったまま動けなかった。
身体は重く、頭はぐるぐる回っていた。
でも、ひとつだけ確かなことがあった。
彼がいない世界を、もう一度歩いていく勇気は――わたしにはなかった。
「逃げるわけじゃない。ただ、わたしは……これ以上、大切なものを手放したくなかっただけ。」
そう自分に言い聞かせて、わたしは、まだ冷静さを失ったまま、“もう一つの未来”を考えはじめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます