第22話 またひとつ重なって

春の陽射しが柔らかくて、まるでこの日のわたしの緊張をほぐそうとしてくれているみたいだった。


彼と向かったのは、震災の津波で甚大な被害を受けた街。彼のお父さんが亡くなった場所でもある。その街に新しくできた商店街に、マドレーヌがとても美味しいと評判のお店があるらしく、前から気になっていたわたしに彼が「じゃあ今度一緒に行こう」と誘ってくれた。


そして、その時。

「実家、寄っていこうかと思ってるんだけど…みちも、一緒に行かない?」

彼が、少し控えめな声で言った。


一瞬、胸がきゅっとなって、わたしは言葉を失った。

彼の家。彼の家族。わたしにとっては、未知の場所と人たち。

でもすぐに「今日は姉ちゃんも実家に帰ってるからさ」と続けてくれて、

わたしは迷った末に「うん」と頷いた。


商店街のある街を抜けて、少し山を越えると彼の実家のある市に入る。

古民家のような、木のぬくもりを感じる佇まいのお家。

門の前には、七瀬さんと、そして彼のお母さんが立っていた。


わたしの胸の鼓動は、たぶん隣の彼にも聞こえていたと思う。

それくらい、緊張していた。


門の前で深く頭を下げると、七瀬さんが「みちちゃん!久しぶり!いらっしゃい」と笑顔で声をかけてくれて、その隣で少し緊張した面持ちのお母さんが、静かに頭を下げてくれた。


「はじめまして。今日は…よろしくお願いします」


そう言いたかったのに、声が震えてうまく出なくて。

彼がわたしの緊張に気づいたように、そっとスケッチブックを差し出してくれた。

わたしはペンを持ち、震える手でゆっくりと文字を書いた。


『今日はおじゃまします。よろしくお願いします』


お母さんは一瞬、そのスケッチブックとわたしの顔を見比べてから、

少し戸惑うような笑みを浮かべた。

でもすぐに「大丈夫よ」と口元を動かして、わたしの手を軽く包み込んでくれた。


居間に通されると、そこは古き良き日本の家という感じで、

縁側から柔らかな光が差し込んでいた。

でも、わたしの心の中はまだずっとガチガチで…。


その空気を感じ取ったのか、七瀬さんが突然

「ほら、お母さん!例のアレ!」とお母さんの腕を肘でツンツン。

お母さんはちょっと照れたように笑ってから、わたしの正面に座り、ゆっくりと手と指先を動かし始めた。


「みちさん…よく…きてくれたね…ありがとう」


わたしは驚いて、そして、嬉しくて、どうしていいかわからなくなった。

なんとか「ありがとうございます」と小さな声と手話で返した瞬間、

ぶわっと、涙があふれて止まらなかった。


斜め向かいにいた七瀬さんが「え?どうしたの?」と驚いた表情で身を乗り出し、

隣にいた彼も「みち、大丈夫?」と、わたしの顔をのぞき込む。

わたしは左手で涙を拭いながら、右手でスケッチブックにようやくこう書いた。


『ごめんなさい、ありがとうございます』


涙で文字が滲んでしまって、自分でも何を書いたのか分からないくらいだった。

お母さんがそっとわたしの横に座って、肩に手を置いてくれる。

目が合うと、優しく笑って、ハンカチを差し出してくれた。


その口元は「大丈夫、大丈夫」って、そう動いていたと思う。


彼がわたしの頬に触れて、そっと涙をぬぐってくれた。

七瀬さんはわたしの頭を撫でながら、「泣き虫さんだねぇ、みちちゃん」と小さく笑った。


気づけば、みんながわたしの周りに集まってきてくれていた。

温かくて、やさしくて、ちょっとくすぐったい空気に、また涙が出そうになってしまった。


気持ちがようやく落ち着いてきた頃、お母さんが「さあ、ごはんにしましょうね」と言って立ち上がる。

七瀬さんが「お母さん、今日は張り切って朝から煮物作ってたんだよ」とニコニコして言うと、

お母さんはちょっと照れくさそうに笑って、台所へ向かった。


食卓には、煮物におひたし、焼き魚にお漬物…どこか懐かしくて、あったかい匂いが広がっていた。

わたしが「すごく美味しそう」と口元に手をあてて言うと、

彼がすかさず「おふくろの味ってやつだな」なんて、ちょっと得意げに言って、みんなで笑った。


みんなで囲むごはんは、想像以上に楽しくて、やさしい時間だった。



そのあと、おトイレを借りたわたしは、廊下を歩いている途中でふと、開け放たれた襖の奥に目をやった。


そこに広がっていたのは、畳の部屋。

静かで、整理された空間。多分、お母さんのお部屋だったのだと思う。


その部屋の壁に、色とりどりのポスターが貼られていた。

その中のひとつ――大きな手話のイラストと、「はじめての手話」と書かれたポスターが目に飛び込んできた瞬間、

また涙が止まらなくなってしまった。


どうしてもその場を動けなくなって、ただただ立ち尽くしていたわたしのところへ、

彼が様子を見に来てくれた。


「……みち?」


わたしの顔を見て、すぐに気づいたんだと思う。

そっと肩を抱き寄せて、耳元で囁く。


「みんな、待ってるよ」


その彼の視線の先に、わたしが見ていたポスターがあった。

彼はわたしの頭をやさしくポンポンとして、それだけでまた涙があふれてきて…


気づけば、彼のシャツの胸元に顔をうずめて涙を拭いてた。

彼は何も言わずに、ただ黙って、わたしの背中をやさしくさすってくれていた。


涙もすっかり引いて、彼と一緒に居間へ戻ると、

七瀬さんが心配そうに立ち上がって、「あれ、みちちゃん、どうしたの?大丈夫?」と駆け寄ってきた。

でもその前に、彼が先に口を開いた。


「まったく、みちは方向音痴なんだからさ。居間と反対の方行ってて、迷子になってたよ。ははっ」


「な、なにそれ!迷子じゃないし!」

わたしは彼の腕を軽くペシッと叩く。


七瀬さんは「あはは!田舎の家だからねぇ。でもみちちゃんならあり得そう〜」とお腹を抱えて笑い、

お母さんまで「うふふ」と口元に手を当てて微笑んでくれて、

場の空気はすっかり和んでいた。



帰り際、みんなで玄関まで見送りに出てくれた。


彼が車のトランクを閉めて「じゃあ、また来るね」と言うと、

お母さんがわたしの方を向いて、少し恥ずかしそうに、でもしっかりと目を見て――

ゆっくり手と指を動かす。


「また…きてね」


今度は、「ゆっくりおいでね」という意味も込めて。


わたしは胸がいっぱいになりながら、

手話で「はい」と返して、大きく手を振った。

車に乗り込んでからも、家の前に立つお母さんが見えなくなるまで、

ずっとずっと、手を振り続けていた。


車がゆっくりと走り出し、山のカーブを抜けていく。

お母さんの姿が見えなくなっても、わたしはしばらく手を振るように膝の上で手を握ったままだった。


「今度は、泊まりでゆっくり来ような」

彼が前を見たまま、ふっと優しく言った。


わたしは、小さく「うん」と頷いた。

それだけで、なんだかすごく嬉しかった。


「そんときはさ、俺の生まれ育った町の名所とか案内するよ。どうせみち、また迷子になるだろうけど」


「なるかー!」


助手席で声を上げて笑うと、彼も「ははっ」と笑った。


夕暮れの光が、フロントガラス越しにふたりをそっと包んでいた。




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