微睡の中で


 ……そんなわけで、生徒会長の案内のもと様々な教室を周っていく。

「やっほー会長! あれ、その子新人?」

「あ! ひょっとして噂のプロストーカーくん? もう手籠めにしたんだ」

「いやいや、きっとこれから風紀委員に引き渡すところなんじゃない?」

「うふふ。そうよ」

「違うが。色んな意味で」

 ほとんどの教室は既に部活やらその見学会やらで人が出払っていたが、一部にはまだ人が残っていた。生徒と出会う度に声を掛けられるボタンの姿は原作のそれと同じで、彼女はやはりこの世界でも高い人気を持つようだった。


 ……どれくらいそうしていたのだろう。全てのプリントを教室に配り終える頃にはすっかり窓から夕陽が差し込む時刻になっており、俺は身軽になった身体をうんと伸ばした。

 心地良い疲労感と共にうっすらとした眠気が襲ってくる。前回と同じ感覚だ。そろそろ『目が覚める』頃合いなのかもしれない。

 しかし、ボタンはもう一つ用があるという。まあ、せっかくなので最後まで付き合おうじゃないか。

 そうして連れてこられたのは……まさかの生徒会室。

「ねえ伊呂波くん。あなたは良い子ね」

「いきなりなんです?」

「この街の伝承を知ってる? あなたみたいな子には奇跡が起きるのよ」

「はあ」

 奇跡? 何の話だろう。強いて言えば今ここにいることが奇跡な気もするけど。

「……うふふ。今日のお礼も兼ねてお茶を出させてほしいの。時間が許すならぜひ、くつろいでいってちょうだい」

 な、そういうことか! あの生徒会室に入れるのは原作ファンとしては願っても無い機会だ。これはまだ起きるわけにはいかないぞ!

「それじゃお邪魔します、と……」

 部屋の扉を開けるとうっすらと香るハーブの香り。陽の当たりが良いからか中はまだ明るく、差し込んだ光が奥に鎮座する大きなソファを照らしている。中央に設置されたテーブルにはいくつもの資料が整理されておかれており、その中でも特に色とりどりのお菓子が盛られた菓子盆が存在感を放っていた。

 部屋の左右の壁際には会議のあとが見られるホワイトボードと、いくつものティーカップやらソーサーが並んだ食器棚。漫画で見たままの光景がそこに広がり、俺はいたく感動する。

「どうかしら? 少し狭いけど、先輩たちが卒業したあともちゃんと綺麗にしてあるの」

「はへ……」

 ソファに着いてからも俺はほとんど放心状態だった。なにせここは親の顔より漫画で見た部屋だ。細かい小物なんかがそのままの位置で置いてあるのを見つけるたびテンションが上がる。ボタンはそんな俺の姿を見て微笑ましそうに笑った。

「あらあら。まるで遊園地に初めてきた子供みたいなはしゃぎようで、私嬉しいわ。今お茶を入れるからね」

 そう言って出されたのは爽やかな香りのハーブティーだった。ラベンダーだろうか? スッキリとした飲み心地は高ぶった心を穏やかに包み込んでくれる。そんな味だった。コラボカフェで飲んだものとは一味も二味も違う。

「お口にあうかしら?」

「ああ。やっぱり本物は美味しいな」

「ふふ。伊呂波くんてなんだか、もうずっと前からこの生徒会のことを知っているように思えるわね」

 どういう意味だろう。まさか、例のストーカーが云々という話のことなのか? だとしたら今のうちに否定しておきたい。

「いや、それは誤解というか」

「隠さなくていいのよ。……うちに興味があるんでしょう?」

 そう言って、ボタンの目はすっと細くなる。な、なんだ? 今まで実家の様な安心感を感じていたのに、急に蛇に睨まれたカエルの気持ちになった。傾いた夕陽が向かいの席に座る彼女の顔を妖しく照らし出す。

「ごめんなさい。盗み聞きする気は無かったのだけど。……たまたま通り掛かりに聞こえちゃって」

 ……なるほど、どうやらシオンとのやり取りを聞かれていたらしい。それなら俺の方が生徒会に入りたがっていると思われても仕方が無いのか。

 ただ、俺はファンとしての興味はあるが生徒会活動に参加したいわけでは一切ない。原作通りにシオンがここに入ってメンバーと絡んだ姿を見たかっただけだ。自分がそこに混ざりたいなんて思ってないし、それだけは絶対にあってはならない。

 ここは彼女たちの花園だ。聖域だ。俺のような異物が混ざってしまったら自分で自分を許せない……。

「あ、あらあら。どうして血涙を流しているのかしら」

「いや……こんな思いをするなら草や花として生まれたかったな、と思って」

「外見からは想像できないくらい自己肯定感が低いのね、伊呂波くん」

 同情されてしまう。放っておいてくれ……。

「ともかく、俺が生徒会に入りたがっているというのは誤解だ」

「そうなの……? それはとても残念ね……」

 ボタンは思っていた以上に気を落とした様子だった。がっくりと肩を落とし、露骨に残念そうな態度を見せる。

「何もそんなガッカリしなくていいだろ。きっとすぐに入会希望者がくるさ」

 今日の状況を見ただけでも生徒会が猫の手も借りたい気持ちなのは理解できる。少なくともツツジは明日にでも届を出すだろう。シオンだって、見学会の段階なだけでまだ部活に入ったわけじゃない。チャンスは明日にも残されているはずだ。

 ……明日?

 いつの間にか自分が『またこの夢の続きを見る事を前提とした』思考を持っている事に驚く。ここにいると度々忘れそうになってしまうが、これは夢なのだ。それならもっと適当に物事を考えていいはずなのに、どうも何かが引っかかる。……このままだと何か大切な物を失ってしまうような、ひどく曖昧な予感が嫌に纏わり付いて離れない。

「……伊呂波くん?」

「――え? あ、ああ」

 ボタンの声掛けで我に返る。

「ごめんなさい。色々手伝わせちゃって疲れていたものね? いいのいいの、それなら冷静な判断が出来なくても無理はないわ」

 彼女はそう言ってにこりと微笑みかけた。確かに頭がぼんやりしてきた気がするな……。しかし、なんだか入会辞退の話も曖昧にされてしまったような気がする。ここは今一度ハッキリと断っておいた方がいいかもしれない。

「あのさ。俺は別に生徒会なんて――」

「そうそう、忘れていたわ! 先生からあなた宛てに書類を一つ預かっていたのよ」

「え?」

 俺の言葉を遮るようにしてそう言い放つと、ピシっといくらかのプリントを渡される。一番上には何てことない内容が書かれたものと、カーボン紙を挟んで後ろにもう一枚。

「なんだ、これ」

「校則に関する簡単な案内よ。基本的なことしか書かれていないから、適当に名前を書いてくれるだけでいいの」

 へえ。どうしてわざわざ生徒会長に。

「んじゃ、後ろのこれは……」

 最後のプリントをめくろうとすると――カチャリ。ボタンが生徒会室の鍵を閉める音が聞こえ、俺は疑問を呈する間もなくそのまま彼女に詰め寄られた。少しでも動けば鼻と鼻が触れ合いそうな距離でダークグリーンの瞳が爛々と輝いていて、彼女の呼吸音がすぐ傍から聞こえる。

 極度の緊張から声を失った俺を見て、止めとばかりに彼女は口を開いた。

「……ただのコピーよ。いいから早く名前を書いて頂戴」

 ……それは有無を言わせない生徒会長の圧だった。黙ってこくこく頷いて、ろくに目も離せぬまま素早く名前を記入する。それを確認すると一転して笑顔を取り戻すボタン。

「うふふ。ありがとう! 私からちゃーんと先生に渡しておくわねっ」

 そう言ってひょいとプリントを取り上げられたかと思えば、謎の重圧から解放された俺の身体はどさりとソファにもたれ掛かった。たった十秒にも満たない間だったのにひどく疲弊している。なんだったんだ、今のは……。

「う……」

 そして俺の身体は限界のようだった。辺りに漂うハーブの香りが強い誘眠効果を引き出していたのかもしれない。ふかふかとした革と綿の中にゆっくり身体が沈み込んでいき、今やそれに抗う気力も無くなった。そうして徐々に瞼が重くなっていく……。

「あらあら」

 ボタンはそんな俺の様子を見て優しく微笑んだ。彼女の左手が自分の額に触れる。まるで子供をあやすかのように、ゆっくりと撫でられる感覚を覚えた。

 ……もう限界だ。俺は昨日とはまた違った安心感に包まれながら完全に目を閉じる。そうして意識までもが遮断される直前、ボタンの甘く優しくありながら妖しさまで孕んだ言葉が耳に木霊した。

「——うちへようこそ、伊呂波モミジくん」

 ……そうして、俺の意識は世界から完全に遮断されるのであった。

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