第一章 カレルとフィルギア 二、(1)
第一章 カレルとフィルギア
二、(1)
その日の夕方、東部地方、天の守り(ヒミンビョルグ)山脈の空には雲一つなく星々が煌めき、ヴィムル川は風もなく静かだった。
天の守り山脈の雪化粧に彩られた絶景を眺めながら、船首と船尾が同じ形をした硝子と木材で作られた細長い板状の優美な船、魔術機械(ルーンクラフター)である機竜船(ドラカール)が、冷たい川面を滑るように進んでいく。
機竜船——「魔術の書(ガルドラボーグ)」を基に刻印魔術(ルーンズ)が施され、強化された硝子と木材で作られた船で、主機関である「グロッティ印力機関」の中枢、グロッティの石板には、水を表すルーン文字、「ラグ」が刻まれ、船首と船尾に取り付けられた尾鰭のような形をした推進装置で、風向きや潮の流れに頼らずに推進する事ができる。
ヴィムル川を行く船体に描かれているのは、森と靴の紋章だった——ヴィーザル帝国ログ湖城塞駐屯部隊に所属する魔術機械兵器、軍用中型機竜船、「スキーズブラズニル・トヴェイル」である。
「スキーズブラズニル・トヴェイル」のような軍用の機竜船は特に細く軽く作られ、船首には突撃の際に使われる衝角が装備されている。
だが今晩は、天の守り山脈に囲まれたヴィムル川のどこにも賊の気配はなかった。
「今日は竜賊『ボルガルネース一家』の連中もお休みらしいな」
船尾楼甲板に設置された防盾付き大型弩砲の前に立つ機竜船兵は、今のところ何の気配もない真っ暗闇を見て安心して笑った。
布鎧の上から兵卒用の外套を羽織っているとは言え、時間が経つにつれて冷え込んでくる。
「奴らは帝国軍に関係がある金目のものしか狙わんし、どこの馬の骨とも知れない田舎娘なんぞに興味はないだろうよ」
隣の大型弩砲を前にして並んで立った機竜船兵もやはり外套を羽織った姿で、夜風を受けながら退屈そうに言った。
「違いない。これが〝ログ湖の貴公子〟様のいつもの女遊びだったら、艦長も大変だな」
「帝国の中枢じゃ、貴族を中心とした皇帝派と市民階級を中心とした皇太子派で派閥争いをしているらしいが、今回の任務は、魔術科学の発展を推進する皇太子様の特命だって噂だぜ?」
「暗号名、『黄金の乙女(グルヴェイグ)』、か。あんな小娘が魔術科学の発展に何の関係があるっていうんだろうな?」
「まあ、お偉いさん方がいくら皇帝派だ皇太子派だと騒ごうが、あの小娘が何の役に立とうが立つまいが、俺達、下っ端は言われた事をやるだけだろうさ」
「そりゃそうだ……にしても、今夜は冷えるな」
二人とも寒さが堪えてきたのか、口数が減り足踏みを始めた。
「——このまま、進路、速度を維持して進め。客室に行ってくる」
操舵室で指揮を取るのは、将校用の外套を革鎧の上から身に纏った中年の軍人、当直の機竜船兵達が話していた件の艦長だった。
艦長は操舵手に命じた後、緊張した面持ちで客室に向かった。
客室ではすでに、二人の男達が小机を挟んで、酒を酌み交わしていた。
一人は〝ログ湖の貴公子〟のあだ名の通り、伊達男と言っていい、常勤服に身を包んだイングヴァル提督。
もう一人は、今は亡き魔術科学分野の権威、フラーナング博士の第一助手だったというだけあって、いかにも帝国の魔術科学者(ルーンマスター)らしく、金糸の刺繍が美しい純白の法衣を身に纏った、柔和な笑みを湛えた細身の優男。
歳の頃なら三十代ぐらいだろう、帝国軍の魔術科学研究機関である、魔術科学研究所「ミーミル(知恵と知識の泉)」の下部組織、魔術科学遺産研究局「フィヨルクンニグ(多くを知る者)」の局長、ナルヴィ・ロプトルである。
「やあ、艦長、君のおかげで今晩も安全な航行だね。ログ湖城塞到着まで、この調子で頼むよ!」
イングヴァル提督は小机に葡萄酒とつまみを並べて、上機嫌で杯を煽っていた。
「ほら、君にも一杯!」
イングヴァル提督はこれが年頃の乙女なら、受け取る前に頬を朱に染めていただろう、葡萄酒を並々と注いだグラスを、気持ちよく艦長に差し出した。
「ありがとうございます」
艦長は愛想笑いで受け取ったものの、口をつけようとはしなかった。
内心、今回の任務は何なのだろうと疑問に思っている。
イングヴァル提督の傍らに座ったナルヴィ・ロプトルという男、はっきり言って胡散臭い。
何年か前に自宅がある囲郭集落で魔狼に襲われて亡くなった、かつてアース神族時代の古文書、「物語詩篇(エッダ)」研究の第一人者として名を馳せたフラーナング博士の助手だったというが——
ログ湖城塞の兵士達の間で囁かれている、
「魔術科学遺産研究局、『フィヨルクンニグ』のロプトル局長は、皇太子の特命を受けてやって来たらしい」
という噂は、艦長が知る限り、概ね事実だった。
発端は一年前、天の守り山脈の麓を流れる川を通りかかった農民が、岸辺に流れ着いた甲冑の戦士を思わせる、氷雪に塗れた白銀の異形のもの——〝氷漬けの戦士(イースヴァルター)〟を発見した事から始まる。
〝氷漬けの戦士〟発見の報はログ湖城塞駐屯部隊の司令官、イングヴァル提督の元まで届き、市民階級の出身で皇太子派だったイングヴァル提督は、これはもしやアース神族の時代の遺産なのではないかと、すぐに〝氷漬けの戦士〟を回収する。
その後、皇太子筋の関係者に連絡し、首都から派遣されて来たのが、魔術科学遺産研究局「フィヨルクンニグ」、ロプトル局長、ご一行という訳である。
ロプトル局長は皇帝派の目を避け、極秘裏に〝氷漬けの戦士〟の研究を進める為、ログ湖城塞の敷地内に仮設の研究所を建てて、首都には運び込む事なく、〝氷漬けの戦士〟の研究を開始。
しばらくすると、アース神族の時代に使われていた二十四個のルーン文字の一部を解析したなどという話が聞こえてきて、かと思えば、早速、軍事技術に転用したといい、気づいた時にはすでに、「フィヨルクンニグ」お抱えの傭兵部隊に刻印魔術による人体強化を施した特殊部隊が発足していた。
特殊部隊、「ベルセルク(狂気の戦士)」である。
彼らは普段、イングヴァル提督やロプトル局長の護衛の任に就き、今も二人の傍らに控えている。
「このまま行けば我々は明日、ログ湖城塞に到着します」
艦長は、白熊の頭巾を被り顔貌が判別できない兵士達を、一度、気味が悪そうに見た後、経過を報告した。
「よろしく頼むよ——神々に乾杯!」
イングヴァル提督が皇太子派の合言葉にもなっているお決まりの乾杯の一言と共に杯を掲げると、ロプトル局長は杯で、艦長は拳で、「乾杯!」と唱和した。
「ロプトル局長、ログ湖城塞に着いたら、早速、『黄金の乙女』から、『ギャラルホルンの角笛』の三つの秘儀を聞き出すとしましょう」
イングヴァル提督は次の予定が待ちきれない子どものように、ロプトル局長に耳打ちするように言った。
「さすがはイングヴァル提督——『他人の財産や命を奪おうと思う者は早起きせねばならぬ。横になっている狼は股肉を手に入れる事はできない。寝ている人は勝利を手に入れる事はできない』、と言いますからね」
イングヴァル提督とロプトル局長が何やら企んでいる様子を見て、艦長は敬遠するように客室を後にした。
「ギャラルホルンの角笛」と言えば、アース神族の〝白き神〟、ヘイムダルが持っていたという、金色の角笛の名だ。
〝白き神〟ヘイムダルは、天上世界と地上世界を繋ぐ「虹の橋(ビフレスト)」の番人を務め、天上世界に「魔属」が攻め込んできた時、「神々の黄昏」の知らせとして、「ギャラルホルンの角笛」を吹いたという。
だが、山奥で一人で暮らしていた少女と、「ギャラルホルンの角笛」に、いったい、どんな関係があるのか?
第一、少女と「ギャラルホルンの角笛」に何らかの関係があったとして、イングヴァル提督とロプトル局長は何を企んでいるのか?
「——艦長、ロプトル局長も皇太子からどんな密命を受けて動いているのか判ったもんじゃありませんが、特殊部隊の『ベルセルク』、あの連中は何なんですか?」
客室の出入り口を見張っていた機竜船兵の一人が、恐ろしげに言った。
「……気になるか?」
と、艦長に意味ありげに言われ、質問した機竜船兵は不安げに頷いた。
「お前達もユグドラシル神話ぐらい聞いた事があるだろう? あれは『フィヨルクンニグ』が『神器装甲(ルーンギア)』からアース神族時代に使われていたという二十四個のルーン文字の一部を解析し、お抱えの傭兵部隊に人体強化の刻印魔術として施した結果だよ。あの連中は言わば、人間を素体とした魔術機械兵器、だ……きっと白熊の毛皮の下にあるのは、人間の形をした〝何か〟だな」
艦長は気味が悪そうに言った。
「人間を素体とした魔術機械兵器?」
機竜船兵は狐に摘まれたような顔をした。
「あの人達、そんなもの作って何するつもりなんですかね……山奥から連れ帰ってきた、あの女の子もどうするつもりなんだか?」
もう一人の機竜船兵も怪訝そうな顔をした。
「確かに、いくら魔術科学の発展を推進する皇太子派とは言え、今回の件が何の役に立つのか疑問に思うのは無理もない。だが、艦長の私も詳しい事は何も知らないし、知りたいとも思わんよ。これも数ある任務のうちの一つだからな」
艦長は肩を竦めた。
与えられた任務を遂行すべき軍人と言えども、職掌以上に任務の内容を知る必要はない。
だが、アース神族の時代の遺産である「神器装甲」の研究結果から人間を素体とした魔術機械兵器なぞ開発した魔術科学者が、わざわざ天の守り山脈の奥地まで出向いて、いくら軍隊を連れているとは言え、危険を顧みず「死霊」が巣食う「鉄の森」を越えてまで連れ帰ってきた少女だ。
「今回の任務、ただの子守りの訳がない。それだけは確かだろうよ」
艦長は背筋に寒気を覚えたように、眉を顰めて言った。
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